今の若い人の中にはユーゴスラビアという国があったことを知らない人もいるだろう。ユーゴスラビアはバルカン半島地域に存在した社会主義国家である。ユーゴスラビアとは「南スラブ人の土地」を意味し、国名として「ユーゴスラビア」を名乗っていたのは1929年から2003年までの期間である。第二次世界大戦前は王国であったが、大戦後はパルチザン(共産主義主体の勢力)を率いるティトーが社会主義を標榜し連邦共和国を樹立した。この社会主義国家を率いていたティトーが1980年死去すると、各共和国は分離独立を主張し、さらには民族間の軋轢による内部分裂を起こし、ほどなく紛争・民族独立・崩壊への歴史を進めることとなる。
私が学生時代には「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」をティトー(私はチトーと習った)のカリスマ性とバランス感覚によって平和裏に統治してきた社会主義国家のひとつの見本として認識されていた。
「七つの国境」とはイタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニアである。1941年ヒトラー率いるドイツと同盟を結んだイタリア、ハンガリー、ブルガリアを含む同盟国軍によりユーゴスラビアは侵攻されて、分割占領される。ユーゴスラビア王国政府はロンドンに逃れ亡命政権を樹立し、粘り強くドイツ軍に抵抗を続けるが、実際に抵抗運動をリードしたのはティトー率いるパルチザンであった。その結果、ユーゴスラビアはソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、自力での解放を成し遂げるに至り、ティトーは国家の英雄となるのである。
1943年に社会主義国家を樹立したティトーはソ連からの自立図り、独自路線を推し進めたため、1948年にスターリンからコミンフォルムを追放される。その後もソ連から刺客を送り込まれたが、ティトーは全て秘密警察により検挙し、ソ連の衛星国化を諦めさせさらに人気を得ることとなる。
さらにティトーは、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れ、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約機構に加盟しなかった。1953年にはギリシャやトルコとの間で集団的自衛権を明記した軍事協定バルカン三国同盟を結んで北大西洋条約機構と事実上間接的な同盟国となる。ティトーの米ソ二大国を相手にしたたかな政治外交手腕の真骨頂と言えよう。そしてソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、特殊潜航艇なども開発する。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備し米ソどちらにも組み込まれない中立的な立場を維持しようと努力する。
また、生産手段においてはソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムを導入した。ソ連と一線を画したユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義を浸透させていったがティトーである。逆にこの自主管理社会主義が、のちに地域間の経済格差を拡大させ、ユーゴスラビア紛争の原因の一つとなるのだが、まさに現在多くの国が直面している経済成長と経済格差是正をどうバランスを取るかという問題は時空を超えて共通の悩みの種なのであろう。
ちなみに冒頭触れた「六つの共和国」とはスロベニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナのことであり、若い方の中にはようやくいくつか聞き覚えのある国名があるのではなかろうか。特にボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア解体の動きの中で象徴的な紛争である。ボシュニャク人とクロアチア人が独立を推進したのに対し、セルビア人がこれに反対し分離を目指したため1992年から3年半に及び全土で戦闘が繰り広げられ、国連の調停やNATOの介入によって終結を見たものの、死者20万人・難民200万人という最悪の結果を招いたことでよく知られている。
「五つの民族」とはセルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人のことであるが、それ以外にもボシャニャク人、アルバニア人、ハンガリー人、イタリア人などが混住している複雑な国家であった。
「四つの言語」とはセルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語のことであるが、セルビア語とクロアチア語は相互の差異は小さく、互いの意思疎通が可能と言われているので、スペイン語とポルトガル語くらいの感じであろうか。
「三つの宗教」とはカトリック、正教会、イスラム教であり、スロベニア人・クロアチア人は主にカトリック、セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人は主に正教会、ボシュニャク人が主にイスラム教である。
「二つの文字」とはラテン文字とキリル文字のことである。
話を元に戻そう。なぜにティトーが死去したのちにユーゴスラビアは解体への道を歩んだのか。まず最初にセルビア共和国コソボ自治州で少数派のセルビア人が多数派のアルバニア人に対する不満を募らせ、独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。民族意識と経済格差への不満がまとめ役のティトーの死により噴出した形であるが、ティトー亡き後、各共和国の政権は脆弱を極めていく。ティトー死後10年経った1990年以降には社会主義政策を放棄し各共和国が独立を果たしていくが、未だに10万個以上の地雷の危険にさらされ、50万丁の武器が民家に隠されているという。
これだけ民族が複雑に絡み合う旧ユーゴスラビアに、「ユーゴスラビア人」と自認する人はいるのだろうか。現在でも自らをユーゴスラビア人として申告する人の思想的背景としては、当然これを導入した共産主義体制を支持する人も存在するが、単にユーゴスラビアを懐古する人、ユーゴスラビア紛争の反省から、民族間の融和に努めるべきであるという思想によりユーゴスラビア人を名乗る人まで幅広く存在するという。また、思想とは別に単に自らの両親の民族が異なるからという理由でユーゴスラビア人として申告する人も存在するとのことである。日本人は日本人の定義をそれぞれ持ってはいるものの、概して大きな違いはないように思うが、xx人とはどう定義すべきものなのか、ユーゴスラビアの歴史をひも解くに簡単な答えは無さそうである。
東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長が発言を切り取られ「女性蔑視発言」と糾弾され辞任するに至ったが、女性でありアスリートである橋本会長になりました、めでたしめでたしというのは頭がめでたい人の言うことである。「多様化」なる言葉が頻繁に使われるようになって久しいが、権限を牛耳る男性主体の理事会に女性を40%入れましょうといった文科省のAffirmative Action的な発想は、そもそも性別や人種などにおいて、社会的に差別されている人たちを救済するための措置として始まったことを考えるに、そのこと自体が上目線の差別なのではないかと私には思える。
男女の人数の帳尻だけを合わせても、結果はただ対立構造を生むだけである。人材の多様性とは外見や属性の多様化ではなく、知識や経験といった知見の多様化に求めるべきものである。そうでなければ積極的格差是正措置と訳されるAffirmative Actionは弱者集団救済の域を出ず、様々なバックグラウンドを持った人たちの英知の結晶を創り出すことにはなり得ないのである。
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