私は8年前にサラリーマンを卒業したので、通勤(痛勤)の毎日からはだいぶ遠ざかっている。コロナ禍も丸一年を超えて二年目に突入して漸くワクチン接種が始まったところに、今度は変異株の猛威で東京オリンピック・パラリンピックの開催に赤信号が灯っている。勤め人の多くは在宅勤務やリモートワークに切り替わり、私の知人は今年5回しか会社に行っていないと言っていた。毎日定時の通勤が当たり前だった現代社会において、外出禁止令にも近い緊急事態宣言発令下で改めて「出社」とは何だったのだろうかと思いを巡らす人も少なくないのではないか。会社に居れば仕事をしたことになるといった楽天家はその存在が危うくなっているだろう。時間は全ての人に平等に与えられている(難病を抱えた方は別として)。金持ちは1日100時間を手に入れられるということにはならない。
懐中時計は1700年代に王侯貴族など上流階級の人々が使い始めたようであるが、腕時計の開発や量産が始まったのは19世紀後半になってからである。きっかけは戦争で、砲撃などの作戦を間断なく実行するために兵士は迅速に正確な時刻を知る必要があり、トレンチコートの中に入れている懐中時計ではその不便さがあったためである。
時計の個人への普及は産業革命と無縁ではない。18世紀半ばから19世紀にかけて起きた産業革命によって動力源の刷新がなされ、綿織物などの工場製機械工業が成立したことは皆さんご承知の通りである。産業革命を機に農民の比率は減少し商工業従事者が激増したが、中でも鉱工業に従事する労働者の数が大幅に増えた。工業の比率が高まるとともに都市には多くの労働者が集住するようになり、これが都市化の始まりである。
日の出・日の入りといった自然時間に緩やかに従って農業を営んでいた農民から、工場の始業時間に遅れないように起床・身支度・通勤時間に縛られる都市労働者への転換が始まったのは今から200年ほど前のことである。イギリスの工業生産は最盛期の1820年代には一国で世界の工業生産の半分(50%)を占めるようになり、以後1870年代に至るまでイギリスは世界最大の工業国でありつづけ、「世界の工場」と呼ばれていた。第二次世界大戦を自国の工業力で圧倒的な勝利を収めたアメリカが20世紀における工業国の先頭を走り、次いで日本が朝鮮戦争を契機に工業力を付け、高度経済成長を走り抜けアメリカの地位を脅かすまでに至る。21世紀に入っては中国が世界の工場と呼ばれ、今や早くもその地位は安全保障上の観点から東南アジア諸国に一部移りつつある。
「時間厳守は最低限度のビジネスマナーである」と言われる。私も時間には厳しく、自ら約束の時間に遅れないように神経を尖らせてきた。人に対しても「時間を守れない奴はろくな仕事が出来ない」という価値観で人事評価を下してきた感はある。「5分前集合」や「人を待たせることに対する経済的損失」も部下やサプライヤーに問うてきた。時間を守らないということは周りの人や会社を巻き込んで迷惑をかけてしまうからというのがその大きな理由である。時間を守れない者は他人からの信頼も得られないし信用してもらえないというネガティブな影響を甘んじて受けなければならない。しかし翻って考えてみると、このような考え方は多分に産業革命的発想なのかもしれない。日本の戦後教育も一斉に一律に動く工業的労働者を育成してきた結果なのかもしれない。
日本の産業人口構造を見てみると、1880年には第一次産業(農林漁業)人口は8割強を占めていた。第二次(製造業)は5%程度、第三次(卸小売・サービス)は1割強である。1950年には第一次は5割を切り、第二次は2割弱、第三次(卸小売・サービス)は2割強になる。製造業がピークを迎えたのは1970年の3割であり、その頃には第三次が5割近くまでその比率を上げてきていた。製造業はその後その割合を漸減させて最新データでは16%にまで低下している。
日本人は諸外国に比べて時間に厳しいと言われる。学校でも集団行動が重要視され、規律を乱す行為は問題児あるいは社会性がないといった烙印を押されてきた。経験上、ラテン系の人とのビジネスでは時間通り会議が始まることは稀である。納期遵守率も外国企業との取引においてはリスク係数をかけて臨む必要がある。プーチン大統領は(様々な戦略があってことか)重要会議や首脳会談には必ず遅刻する。閑話休題。
製造業においては高度成長期から機械化、自動化が推進され、省人化が進められてきた。そして製造業のデジタル化、いわゆる第四次産業革命の進展により、製造ラインの現場作業員のみならず、企業の調達管理部門などの中流工程に携わる人の仕事はAIやロボティックスの出現により大きく減少していく可能性が高い。
私は32年のサラリーマン生活の中で11年半はアメリカで仕事をしていたし、日本に居ても海外企業との取引が多かった。それゆえ仕事をするにあたっては常に時差を意識していたし、時間を効率的に使うよう努めてきた。リゲインの「24時間、戦えますか」といったCMが話題になったのはバブル崩壊後の1991年であるが、バブル期にはアメリカで24時間体制で仕事をしていた。といってものべつ幕なしに休みなく働いていたわけではない。9to5のように仕事時間と私生活を切り分けていたわけではなく、もっと小分けに仕事時間と私生活を切り替えて生活していた。メールは必ず毎日チェックするが、それは緊急案件がないかチェックするためであって、休日がないという意味ではない。本当に頭を使う仕事はNoisyな会社ではできなかったので、自宅の自室でレポートやプレゼン資料は作っていた。
コロナ禍にあって、人々が在宅勤務のメリット・デメリットを理解して、目的意識とメリハリをもって自らの時間を自己管理していけば、無駄な時間に付き合わされない満足感、本当に集中して効率的に仕事が出来る達成感、家族との時間や自分だけの贅沢な時間を味わえる幸福感に浸れるようになるはずである。こう考えるのはまだ時間に支配されているからなのかもしれない。うちの子供たちの世代は出かける時には腕時計をしていないし(スマホがあるからOK?)、私自身もこのコロナ禍でしばらくぶりに外出すると腕時計をはめることを忘れているときがある。これこそが本当の時間からの解放かな?
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