巷では労働力不足が叫ばれている一方で、AIやロボティックス技術の急速な進展により人々の仕事が奪われると言われている。国内における所得格差が多くの国で指摘される一方で、政情不安な国から安定と仕事を求めて先進国へ難民や移民が押し寄せ、先進国では治安が乱され職を奪われると権利を主張する人々が政権を揺さぶる。マクロで見ればこれまでの技術の進展により明らかにそれまでの人々の労苦は代替され楽になってきたわけだが、ミクロで見ると自分の仕事を機械化やIT化により奪われたとみる向きもあるのは当然であろう。産業革命時において労働者による機械焼き討ちはあったし、銀行などの金融業界でも人員削減が進められ将来的には大量解雇が計画されている。技術の進展が早ければ早いほど、労働者はその変化のスピードに対応できないし、今後の技術変革そのものの高度化はさらに対応し生き残れる人々の門戸を狭めていくであろう。私自身は既存の大方の労働観と言われた「生活の糧とする労働」を軸に無事リタイアするところまで来ることができたが、これから人生100年時代と言われる将来のある若い人たちにとって労働とはどういうものは明らかに思考の変革を求めるものになるのであろう。私が現役のサラリーマンであった頃は、就職を生活の糧を得る場所として割り切って生きている人が多かったように思うが、20代の若い人にとっては生活の糧というよりは生きがいや社会貢献といったものを求めている方が強いように思う。一般に生活が豊かになったことがそれを許容しているわけで、それはそれで単純に人間の進化という側面では喜ばしいことであろうと思われる。
以前のブログにも書いた記憶があるが、古代ギリシャでは労働は価値がないものとされた。市民はもっぱら政治・哲学・芸術を論じ、義務と言えば兵役だけ。労働は労苦であり奴隷の行うものとされ、特に手作業職人は卑しい存在とされた。貨幣を扱う商人はさらに劣等とされ欲の塊と蔑まれた。
中世になると西洋においてはキリスト教の影響を色濃く受け、労働は贖罪の意味を持つようになる。古代から労働は罰と見做されてきたが、宗教色を帯びることにより神の身許に行くための行為と位置付けられた。中世では聖職者(祈る人)が社会の頂点に君臨し、次に兵士(戦う人)が位置づけられ、労働者(働く人)は最下層に置かれた。特に高利貸しや売春といった職業は社会から断罪される代表格の職業であった。それ以外にも肉屋、外科医、死刑執行人、兵士といった血を流す職業は宗教上の観点から忌み嫌われた。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教でも本来は利子を取ることを認めていない。1万円を貸して1000円の利子を取ることは時間を使って金を稼ぐことで恥ずべき行為とされた。なぜなら時間というものは神に属するものであって、それを侵してはならないという考えが根底にあったからである。
しかし交易が盛んになり商人がお金を儲けるようになって蓄財が進むと、これまで身分の低かった商人はその立場を見直してもらおうと動くようになる。教会の立て直しといったことを契機に寄進を行い、中世社会の頂点に立つ聖職者と直接繋がり、その立場を強いものにしていった。堕落し始めた教会は寄進をしてくれる商人を公益のための商行為として承認し、果ては忌み嫌っていた売春でさえも、その利益を教会に施せば認めるといった辻褄合わせに傾斜していくようになる。事ほどかように歴史的に見ると労働の価値というものは外部要因によって変化してきたのである。
近代になって労働観に大きな影響を与えたのはカール・マルクスの「資本論」であろう。多くの賃労働に従事していた労働者は自分の意志で労働をしているわけではない「疎外された労働」であるとマルクスは論じた。資本家というブルジョワジーに搾取されている賃労働者プロレタリアートは連携して決起をし、共同組合(Association)を作り、人間の喜びとしての労働社会を実現すべきであると主張したのである。つまり労働をてこに共産主義実現という社会革命を起そうとしたのである。
では日本人の労働観とはどういうものであろう。一般に勤勉性が高く、集団や組織への帰属意識が高いと言われてきた。労使関係でも企業内労働組合といった共同体的な関係性を維持し、一部の過激な労働組合活動を除けば、前述のマルクス主義のような対決姿勢とは一線を画すものであったと言っていいであろう。そうした労使一体・官民協調が高度成長期における生産性の向上と国際競争力の強化に一定の効果があったことはまぎれもない事実である。しかし、高度成長期以前の1930~40年代の日本の職場ではどうやって仕事をさぼろうかと思案を巡らす労働者は少なくなく、そういった折あらば怠けようという労働者をどのように管理したらいいのか、管理者の間では大いに悩んでいたとの記録もある。
日本人の労働観を端的に言い表しているのは「働かざる者食うべからず」であろう。しかし、この言葉は元々は新約聖書の一説であり、レーニンも引用して、労働者から搾取し自ら働かない資本家たちを批判する論法として使っている。日本のそれは怠惰な人間を諫めている言葉であって、同じ言葉の引用ではあるが、意図は異なっている。日本国憲法では国民の三大義務として教育・勤労・納税を掲げているが、勤労を国民の義務と規定している国は社会主義国家をおいては他にはない。時折、日本は社会主義国家ではないのかと思わされる一因である。
さて労働の未来を考えるうえで、勤労は国民の義務なのかというところから考えてみたい。日本国憲法第二十七条の正式な文言は「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」とある。勤労の権利を有し、義務でもあるというややこしい文言になっている。今回文言を深堀するのはやめて、勤労が義務なのかどうかという議論にベーシック・インカムという一石を投じてみたい。冒頭のAIやロボティックスの進展により、効率性や生産性といった領域は完全に人間の能力を凌駕し、人間の労働を置き換える段階に至っている。古代ギリシャで奴隷が行ってきたような繰り返し定型業務は早晩AI・ロボティックスに置き換えられていくと考えるのが妥当であろう。労働者サイドの抵抗やセイフティーネットのような社会的配慮を望む声によって、若干後ろ倒しになることも予想されるので、それがいつ現代社会を揺さぶるレベルにまでなるのかはわからない。生き残る仕事として創造的な仕事、イレギュラー管理をする仕事、人間の琴線に触れるような感情ビジネスなどが未来学者たちによって挙げられている。一方で新たな仕事や生き残る仕事に就けなかった人はユヴァル・ノア・ハラリ曰く「Useless Class」として分類されてしまうのであろうか。これまでの農業革命・産業革命・IT革命を通じても何とか新たな仕事を創造して生き延びてきた人類をして、AI・ロボティックス革命を乗り切れるものであろうか。これまでの革命は様々な職業を生み出してきたが、AI・ロボティックス革命は多くの人々に対して就職機会を生み出すことができるようには思われない。仕事がないと考えるか、仕事をしなくていいと考えるか、それが個人個人の考え方次第になってくる。そしてベーシック・インカムの政策が現実味を帯びてくると後者の選択をする人々が増えてくるではないだろうか。
果たして人間は「働かなくても食ってはいける」状態に置かれたときにどのような選択をするのであろうか。怠惰に生きるのであろうか、ボランティアでもいいから人のために働くのであろうか。どちらにせよ、その人にとっての幸せとは何かという問いに直面するに違いない。豊かな生き方とは何か? 人生とは何か? ソクラテスは2500年ほど前に「ただ生きるのではなく善く生きよ」と説いた。AIが絵画を描き、小説を書くようになった時代にソクラテスの問いは2500年前より現代人に重い問いを投げかけている。
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