アメリカの人類学者デヴィッド・R・グレーバー氏による著書「ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論」は個人的に言えば、ローレンス・J・ピーターの「ピーターの法則」(レイモンド・ハルとの共著)以来の社会学領域における名著である。残念ながらグレーバー氏は2020年9月享年59歳で亡くなってしまったが、遺作「The Dawn of Everything: A New History of Humanity」が昨年出版されている。Bullshitはアメリカにおいてはほとんど放送禁止用語扱いの言葉ではあるが、その言葉を敢えて用いることによって現代の多くの仕事がクソどうでもいい仕事になっていることを強烈に印象付けている。
18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命によって多くの肉体労働が機械化され、人間は多くの苦役から解放された。家庭内においても家事が洗濯機、掃除機、ミシン、炊飯器、電子レンジ等の家電製品によって軽減された。肉体労働に従事していた男たちは新しい職場を求め、うまく生活の基盤を作った人もいれば、転職に成功せずに暮らし向きを悪化させた人もいた。多くの時間を家事に奪われていた女性たちは社会に出て働き始め、自ら収入を得てある程度の自由を手に入れた。さらに自己実現に向けて社会の上層にのし上がっていった女性たちもいた。
1995年に発売されたWindows95は情報技術革命の幕開けと言っていいであろう。IT革命によってオフィスワーカーも大きな変革の波に飲み込まれる。あらゆる職場がコンピュータとネットワークによって再構築され、インターネット革命によって情報の共有化が世界規模で爆発的に拡大した。欧米でなくてもタイピストなる職業は絶滅したし、レジ打ちはバーコードリーダーの登場によりスキルを要する仕事ではなくなった。
AI・ロボティックス時代に入った現代では、大企業ではプログラミングが必須研修となり、データ活用の基礎知識が組み込まれるようになってきている。
明らかにこの100年で技術の進展による恩恵を人間は享受してきたはずであるが、特に日本においては過密スケジュールによる繁忙感がつい最近まで当たり前のように社会通念として認識されてきた。それで何やら収入が上がって物理的な幸福感が増していれば救いもあるが、そのような人は極限られた成功者たちだけのように思える。
この100年に及ぶ技術進展による恩恵が社会的にもたらされたことは明白である。いわゆる浮いた時間の使い方がこれまでの社会常識(たとえば勤勉を是とする教え)に囚われていたため、9時から5時は働く時間と決められていると勘違いしてきたのである。いわゆる9to5は産業革命により、多くの農民が都市部の工場に集まってきて、生産性向上のために導入されたシステムであって、それまでは日の出から日の入りまでが労働時間であった。9to5は現代の多くの仕事の規範に属すべき常識とはもはや言えないであろう。グローバルで仕事をしていれば商圏に合わせて仕事をするのが当たり前であるし、世界中と仕事をしていれば、仕事時間を合間合間に確保しながら仕事をこなしていかなければならない。24時間を個人の生活と仕事のバランスを取りながらどう使うかということになる。コロナ禍による在宅勤務の浸透によって在宅勤務の生産性向上の有用性は証明されたといっていいであろう。米国では年収が高い人ほど在宅勤務実施率が高く、年収5万ドル以下では27.5%に対して、年収15万ドル以上では52.2%に達する。時間の使い方の多様性が図らずもコロナ禍において拡張したわけである。
イギリスの経済学者ケインズは1930年の講演で、「2030年には人々の労働時間は週15時間になる。21世紀最大の課題は余暇だ」と予測した。人々の頭の中にある経験的・社会的常識(日本人であれば特に同調圧力)と生活不安さえ取り除くことができれば週15時間労働は可能であると私は思う。自身実際ほぼその程度の時間しか働いている実感はない。そもそも労働と趣味が不可分になっている。個人事業主ならではの特典である。会社勤めをしていれば、上司の目は気になる。暇にしていると思われたくはない。何か会社に有益なことをしているふりをする。生活費を稼ぐにはそのくらいの演技は必要だ。一方、国家は失業者が増えるのは困る。社会不安は選挙の洗礼を受ける自身の危険信号になる。選挙に落ちたらタダの人である。景気対策の公共事業を増やす必要がある。国は金持ちからの税収を増やそうとする。金持ちはそうはさせじとロビーストを雇って画策する。大衆社会においても金持ちからかすめとる仕事が跋扈する。それは家族を養うため、あるいは次のステップへの踏み台と自身に思い込ませて納得させる。電話で不動産や投資商品などを売り込んでくるテレマーケターなどはブルシットジョブの典型である。自身もそれほどの意義を感じることはできていないだろうし、電話を受けた方はほぼ100%迷惑千万な話でしかない。そういった迷惑電話に対する一発撃退法はネット上で共有されている。情報技術革命後においてはパソコンに向かって1日8時間仕事をしているふりをしていれば何某かの時給を得ることができようが、社会的な価値はなく、他人の時間を奪うという意味においてはマイナスでしかない仕事も多い。
この著書では、無意味な仕事と割に合わない仕事を明確に区別して扱っている。前者をブルシットジョブ、後者をシットジョブと呼んでいる。前者はとても実入りがよく、極めて優良な労働条件のところにある。ただ、その仕事に意味がないだけ。後者は誰かがなすべき仕事、あるいははっきりと社会に益する仕事に関わっているが、報酬や処遇面でぞんざいに扱われている仕事である。前者の典型は部下に仕事を振るだけのいらない管理職。後者の典型は介護福祉職であったり、飲食店社員辺りかもしれない。前者は特に悪質で、部下を暇にさせないために、意味のない仕事をでっちあげやらせる。ここには人数が多い組織が上等であるという「常識」が背景にある。
ブルシット・ジョブの最終的な実用的定義:ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。
ブルシット・ジョブの主要5類型
1. 取り巻き(flunkies):誰かを偉そうにみせたり、偉そうな気分を味わわせたりするためだけに存在している仕事
2. 脅し屋(goons):雇用主のために他人を脅したり欺いたりする要素をもち、そのことに意味が感じられない仕事
3. 尻ぬぐい(duct tapers):組織の中の存在してはならない欠陥を取り繕うためだけに存在している仕事
4. 書類穴埋め人(box tickers):組織が実際にはやっていないことを、やっていると主張するために存在している仕事
5. タスクマスター(taskmasters):他人に仕事を割り当てるためだけに存在し、ブルシット・ジョブをつくりだす仕事
ご自分の仕事が上記のどれかにどっぷり嵌っていると感じるのであれば、できるだけ速やかにそこからの脱出を試みることです。AI・ロボティックス時代においてはこれまでの権力者発想から生活者発想に、独占資本発想から社会資本共有発想に、利益至上主義から持続可能社会に価値が急速にシフトしていく一大転換期にありますから、馬車から自動車に乗り換える絶好のチャンスなのです(1908年にT型フォードが発売され、ニューヨークはたった5年で馬車から自動車への転換が進みました)。
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