ポリコレからの言葉狩り

最近は何でも言葉を短縮してしまうので、「えっ?」と聞き返したくなることが多い。耳が遠くなってきた証かも知れない。そういった言葉の一つに「ポリコレ」がある。「ポリコレ」とはPolitical Correctnessの略で「パリコレ」ではない。さらに当たり前のように「PC」とか言われてしまうとパソコンビジネスに身を置いていた私としては話の方向性を見失ってしまう。Wikipediaによると、ポリコレは「社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策または対策などを表す言葉の総称であり、人種・信条・性別などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を用いることを指す。政治的妥当性とも言われる」とある。

「差別」をするべきではないという論理には大方の人が賛同するであろう。人種差別、男女差別、障碍者差別、貧困差別、職業差別など、現実社会に目を向ければ「差別」なるものは枚挙にいとまがないほどである。しかしながら、単なる「区別」が「差別」として扱われるようになると、マイナー(少数)がメジャー(多数)を食い殺す結果になりかねない。「区別」と「差別」は全く違う概念ではない。差異や種類によって分けることが「区別」で、これをもっと狭く限定して使う言葉が「差別」である。それゆえ、「区別」と「差別」は論争の対象になる傾向が強い。「女性の管理職をxx%にまで増やしましょう」といったスローガンは今や多数の支持を得るようになってきているが、本音では賛否両論あるのはご案内の通りである。賛否両論というよりは双方メリット・デメリットがあるというべきであろう。こう言っただけで、「女性管理職を増やす」ことを当然と思っている方々からは、メリット・デメリットなんて言っていること自体が事の本質をわかっていないとお叱りを受けそうである。しかし、常に目的と手段を混同することがあってはならない。女性管理職を増やすことによって実現したい目標があるはずで、その目標へ到達する手段はいくつもあるはずである。

ポリコレの流れを受けて、多くの言葉が是正されてきた。「放送禁止用語」というともっと分かり易いかも知れない。サラリーマンはサラリーパーソンに、キャリアウーマンはビジネスパーソンに、看護婦は看護師に、スチュワーデスはキャビンアテンダントに、土人は先住民に、トルコ風呂はソープランドに、肌色はペールオレンジに変わった。意味が変わってしまったと思われる言葉も少なくない。
私が子供のころには「めくら」「おし」「きちがい」「かたておち」「せむし」「びっこ」など、今では目を覆わんばかりの言葉が当たり前のように使われていた。漫画「あしたのジョー」では、こういった言葉が氾濫している。最近、私が好んで聴いている講談の世界では、YouTubeの最初に「現代では不適切な表現が含まれている箇所がありますが、古典芸能として台本を尊重し、そのまま収録してあります」との但し書きがされている。若い人には聞きなれない言葉が頻発するであろう。

医学の世界では「痴呆症」は「認知症」と改められ、「精神分裂症」は「統合失調症」と改名されている。却って分かりにくくなったような気もするが、一度理解すれば実社会で困ることはない。しかし何か本質を覆い隠してしまったのではないかという気もする。

JISの世界でも「メクラフランジ」は「閉止フランジ」と改正されたが、英語表記はBlind Flangeが残り、記号はBLが使われている(閉止フランジとは、配管に使用する継手の一種で、配管等の端部で使用流体の流れを止め、閉止するためのフランジ。フランジとは、円筒形あるいは部材からはみ出すように出っ張った部分の総称)。

さて、ここまでは私に異論があるわけではない。皆が過ごしやすい社会を築く上での人類の知恵だと思う。しかし、事が男女の区別を超えたLGBTQなるものに話が飛躍すると異論を唱えたくなる。LGBTQの存在を否定するものでは全くないことを最初にお断りしておく。男でもない、女でもない、性別Xなるものが登場し、「性自認」なる言葉が闊歩し始めて、生物学的な男女ではなく、男性器があろうがなかろうが、自身が女と認めれば、女。女子トイレにも入るし、女風呂にも入る。ついには女子スポーツ界にデビューし、ぶっちぎりで優勝するなどという無茶苦茶なことが起きてしまっている。あっていいはずがないことがまかり通って多くの人が困惑している。重量挙げのローレル・ハバード選手(性転換手術済み)、競泳のリア・トーマス選手(男性器あり)などが具体的に議論の的になっている。この状態を放置しておくとどうなるかといえば、今度は格闘技で女性自認する「男」が現れ、相手女性選手に大怪我をさせたりすることが起こりうる。そうなってしまうと、Transgenderが女性スポーツ界を次々と乗っ取ることにもつながりかねない。すると、スポーツ選手特待生の奨学金も女性選手からTransgenderに横取りされてしまうかもしれない。性別Xがどうしても必要であるというのであれば、スポーツ界も男でもない、女でもない、xという分類を新たに作るべきであろう。ポリコレはマイノリティを救う存在から、マイノリティが特権を得る手段にも成りうる。

行き過ぎの矛先は他にもある。ハリウッドのキャスティングは、黒人には黒人の俳優を充てる、アジア人の役にはアジア人を充てる、黒髪には黒髪の役者を充てる、ろうあ者にはろうあ者を充てる(今年、オスカーを受賞した「コーダ あいのうた」のろう者は全てろう者の俳優です)動きが活発です。リアリティを追求することは当然だし、異論はありません。しかし、まさに多様性を認める芸術やアートの世界に、そういったルールを持ち込むのは却って発想の自由を奪い、芸術における自由の抑圧につながるように思う。黒人には黒人の俳優を充てなければならないという「ねばならない」という話になるのはおかしくないだろうか? 暴力はいけないが、英語のシーンに暴力を全て排除すべきなのか? アカデミー賞授賞式という公の場で俳優のウィル・スミスが脱毛症に悩まされている妻の容姿をからかうような発言をしたコメディアンを平手打ちにしたことは全てウィル・スミスが悪いと断罪するのが「正義」なのか? 日本には昔から喧嘩両成敗という言葉があります。ですから喧嘩両成敗ではなかった(今でも謎の)忠臣蔵の話は日本において長年語り継がれ続けてきたのです。ポリコレには一方を一方が全否定する概念が潜んでいることを見抜かなければなりません。

米国においてはLGBTQの台頭により、He、She、Husband、Wife、Father、Motherといった言葉が公の場で使えなくなる懸念が浮上しています。米カリフォルニア州の都市バークレーの市議会では同市の条例から性別を特定するような単語や表現をすべて排除することを全会一致で決定しました。He、Sheの代わりに何を使うのかといえば、Theyです。単数でもThey? そうです、Theyは3人称単数にもなったのです。そして夫妻父母などの配偶者はSpouse。DadやMomは今後どうなっていくのでしょうか?

陰謀論と一笑に付してほしくはないのですが、LGBTQの台頭には社会を家族崩壊につなげようとする意図を感じます。BLM(Black Lives Matter)もアメリカを分断しようとする何者かの意図が見え隠れします(BLMのルーツを探ると見えてきます)。アメリカには大いに問題があることを承知で書きますが、「民主主義」を旗印に建国したアメリカは「自由、平等、幸福を追求することは、天から与えられた人の権利」として、独立宣言を行い、「全ての人が自由でなければならない」と説いて奴隷解放宣言を行った、世界で一番差別の少ない自由の国です。そのアメリカで差別を殊更声高に叫ぶ理由は何でしょう。差別は世界中に存在し情報が閉ざされている国や地域は沢山あります。報道陣の努力によって白日の下に晒されてきた人権抑圧の事実が多々あります。本当に世界の人権問題に取り組むのであれば、生死にさまよう人々にまず焦点を当てるべきでしょう。戦時は元より、戦時でなくてもフェークニュースによるプロパガンダ(プロパガンダ=パブリックリレーションズ-倫理観)が溢れかえっている今の世の中を目を凝らしてみる必要があります。「差別しない」という絶対善を隠れ蓑に様々な悪用を試みる人たちがいることを見抜かなければなりません。現実、見事といえるほどアメリカは分断国家になってきています。何者かがほくそ笑んでいる気がしてならないのです。なぜなら彼らは国家を弱体化させる最も有効な手段が国家内を分断することだと知っているからです。

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