不寛容社会にひと言

COVID-19第7波もようやく下火になってきて、マスクはいつ外すんだといった話題がメディアでも取り上げられるようになってきました。私自身は数か月前から余程の人込みでない限りは外ではマスクを外していますが、まだマスクをして歩いている方の方が大多数ですね。個人的には咳をする人や口角泡を飛ばす人以外はマスクしなくてもいいと当初から思っていましたが、世の中には他人のマスク未着用を激しく指摘する「マスク警察」なる人々も一部にはいました。
エリザベス女王の国葬でもマスクをしている人はほぼいませんでした。先日感染症の医師がワイドショーでその点を訊かれると「お国柄が違いますし。。」などと、およそ専門家らしからぬ発言をしていたので、びっくりしました。マスク着用の科学的根拠はどこにいっちゃたんでしょう??
先月は伊豆箱根バスで、マスク着用を拒否した客を途中で降ろしたとしてバス会社が国土交通省中部運輸局から行政処分を受けましたが、一方的にバスの運転手を非難するのはどうなのかとも思います。運転手が他の客のことを気遣って行ったのかもしれませんし、会社からそのような指導があったのかもしれません。バス内には「マスク着用して下さい」というステッカーが貼ってあることもありますし。客が運転手の指摘に従ってマスクを着用すれば、このような事件にはならなかったでしょう。運転手の方も客をバス停以外の場所で降ろしてしまったことは、安全上の配慮が欠けていたのではないかとも思います。
日本人は同調圧力に弱いことに加えて、お上に従う従順な国民性なので、お国からお沙汰がないと判断がつかないという人が多いようですが、実際はマスクを着けている人、着けていない人、皆さん多様な意見をお持ちで、それぞれで判断すればいいと私は思います。自分に脅威や危害が及ばない限りは攻撃的になる必要はないと思います。実際、攻撃的な人は極一部だと思いますが、それでも大らかな昔に比べれば他人の言動を糾弾する人は増えているような気がします。

Wikipediaに「不寛容社会」という言葉がありました。英語ではIntolerant society:自分の主義・信条(社会規範の個人的解釈も含む)と合わない行動を取る他人を叩いたり批判したり、さらには人格否定まで行う人が増えた社会のことである(つまり個人的な攻撃の意図を持って社会規範の解釈が歪められている)。個人の発言力が大きくなったSNS普及後(特に2010年代後半以降)に大きな問題となっているとありました。ちょっと前であれば、そういう人たちは「モンスター・クレーマー」という括りで極少数派で手を焼く存在でした。最近は絶対的正義を装って針小棒大な表現で攻撃する人が多くなって、反論しようものなら更なる応酬や晒し上げ、見せしめにあう事にまで発展する恐れがあります。公の場で謝罪しても社会的に排除されるまで誹謗中傷が続けられる場合も少なくなく、有名人などは血祭りに挙げられ、吊し上げられて社会的地位を失墜させられることもこれまで見てきました。
社会の不寛容化が進んだ原因については、上述したSNSの急速な発展がその背景にあるのは間違いないことでしょうが、マスメディアの不寛容な態度も大きな理由のひとつでしょう。SNSは個人的な意見が飛び交うサイバー空間です。テレビなどは本来ならば、そういった多種多様な意見を公平公正に取り上げ、まともな社会作りに貢献すべき公共電波使用を認められた組織です。それなのに、極端な意見をセンセーショナルに取り上げ、分断を煽って小銭稼ぎ(今や小銭すら稼げないかな)をしている集団になり下がっています。ワイドショーのほとんどは下請け会社で作られていて、局の報道部は全く関わってないと聞きます。多くのテレビ局は今や不動産業で屋台骨を支えているジャーナリズムとは無縁の存在となっているのです。

安倍元総理の国葬では、新聞によると6割が反対、賛成は3割と報じられました。国葬当日、私は半蔵門から日本武道館のある九段下まで歩いてみました。献花に訪れた長い行列は5㎞に及び4時間並んだ人もいたとか、2万5千人超と政府は公表しました。国葬反対のデモは主催者発表によると1万5千人とのことですが、私の視界で言えば、数百人程度、数千人という規模ではありませんでした(国会前とか色々なところでデモがあったようで警察も公式には発表していません)。その後、ネットで「安倍元総理デジタル献花プロジェクト」なるものが行われていることを知って、私も昨日デジタル献花をしました。地方の方で献花に来れなかった人や、長時間待たなければならなかった行列を途中で諦めて帰った方などが献花をしたのでしょう。その時のカウントは51万人を超えていました(9月30日で終了)。https://offering-flower.com/bgm?path=%2F

英哲学者トマス・ホッブズは1642年の「市民論」で「社会の構成員全員が司法や暴力を含む無制限の権利を持つと、社会は万人の万人に対する闘争の状況に陥り正常に機能しなくなる」と述べています。
江戸時代に村八分という私的制裁の制度がありました。村の掟に従わない者に対して、村民全体が申し合わせてその家と絶交することです。今でも仲間はずれにすることを村八分と呼んだりしますね(褒められたことではありませんが)。村の交際には冠・婚・葬・建築・火事・病気・水害・旅行・出産・年忌の10種類があります。そのうちの火事と葬のふたつについては絶交していても駆けつけることにしていたので、八分という言葉が使われました。いったん村八分となった者でも、有力者を仲介に立てて酒食を提供して「詫を入れる」と許されるとされました(以前と同じというわけにはいかなかったようですが)。

他者を尊重する思いやりの気持ち、優れた感受性と共感力、他国の文化や技術を取り込み日本流にアレンジできる柔軟さ、自然との共生、過ちを咎め立てせず人を許す寛容さ、こういった日本人の良識はどこへ行ったのでしょうか? 私はマスクを着けている人も着けてない人も黙って整然と行儀よく献花の長い列に並ぶ多くのサイレント・マジョリティに日本人の良識を見ました。決して消えてしまったわけではなく、見えにくいものなのです。日本人の良識を持った人々は控えめで明確に表現をせず、想像の余地のあるものに美意識を感じる人たちです。自分自身が心の目を凝らし冷静な気持ちで見なければ見えてこない繊細なものなのでしょう。

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