1941年12月8日(日本時間)日本陸軍による真珠湾攻撃をきっかけに、アメリカは日独伊枢軸国と戦争状態に入った。アメリカ政府はアメリカ本土及び中南米諸国に住む、日系アメリカ人と日本人、ドイツ系アメリカ人とドイツ人、イタリア系アメリカ人とイタリア人に対して「敵性市民」として監視の目を向けることになった。その後、スパイの嫌疑をかけられた日系人数千人(最終的には約17,500人)は検挙されていたが、1942年2月19日のフランクリン・ルーズベルト大統領令9066号によって12万人の日系人が着の身着のまま(財産没収)の形で辺境10か所の強制収容所に送り込まれた。そこは住居とは言えないような急ごしらえの木造バラックで砂塵が吹き込み、冷暖房もなく、衛生管理も不十分で食中毒や下痢が多発した。同じ敵国であったドイツ系・イタリア系には一切強制収容の事実はない。
勤勉な国民性から経済的に成功している日系人への反感、アメリカの伝統に馴染もうとせず日本文化を大切にする異邦人への違和感、黄色人種であるという人種差別(黄禍論)が主な理由であろう。
日本がポツダム宣言を受諾した1945年の10月から11月にかけて強制収容所は次々と閉鎖され、全ての強制収容者は家に戻るように命令された。しかし、ほぼ2年半に及び家・仕事・財産を放棄させられた日系人が元通りに社会復帰できるはずもなかった。ドイツ系やイタリア系と違って市民権も剝奪され「二級市民」として辛い生活を余儀なくされた。敵国人扱いされ、以前にも増して酷い人種差別に晒されることになり、日本に帰国した日本人も多かった。
一方で、戦時中3万人の日系人が米軍に入隊し、危険を伴う最前線での任務に就かされた。のちに日系人初の両院連邦議員になるダニエル・イノウエは第442連隊(日系人部隊)で右下腕を失うほどの過酷な軍務に耐えた。戦後、トルーマン大統領は帰還した第442連隊に対し「諸君は敵のみならず偏見とも戦い、そして勝利した」と米国への忠誠を称えた。
そのトルーマン大統領は1948年7月2日に、日系人の強制収容に対する、連邦政府による補償策として「日系人退去補償請求法」に署名するが、1件当たりの補償額の上限は2,500ドル、請求権の時効期間も1年半と限定的なものであった。
その後30年以上を経た1981年に、ジョーン・バーンスタイン女史を委員長とする「戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会」(CWRIC)の公聴会が20日間に渡って全米各地で開かれた。その結果として1983年2月24日に「日系人の強制収容は、軍事的な必要性ではなく、人種差別・戦時中の集団ヒステリー・政権の失策に基づいた、不当なものだった」との報告書が公表された。CWRIC(Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians)は、存命している元収容者約6万人に対し、1人当たり2万ドルの賠償金(総額15億ドルと報道された)を支払う事を、連邦議会に対して勧告した。当時2000億ドルもの財政赤字を抱えていたアメリカでは委員会のメンバーのラングレン下院議員も財政問題を理由に賠償には反対していた。元日系上院議員サミュエル・ハヤカワ氏も当時、収入の高い日系人が2万ドルもの大金を受け取ったら、人種差別に油を注ぐと反対意見を述べている。勧告はその後議会において2回廃案となったが、1988年8月10日にロナルド・レーガン大統領が「市民の自由法」(別称: 日系アメリカ人補償法)に署名し、「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と、憲法で保障された権利を侵害した事に対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容を経験した日系人に対して公式に謝罪を表明し、現存者に2万ドルの損害賠償を行った。
1992年にはジョージ・H・W・ブッシュ大統領が国を代表して再度謝罪すると同時に、全ての現存者に2万ドルの賠償金が行き渡るように4億ドルの追加割り当て法に署名した。
1999年に賠償金の最後の支払いが行なわれ、11年間に総額16億ドルが82,210人の収容された日系アメリカ人、もしくはその子孫に支払われ賠償を終えた。
2021年2月19日、ジョー・バイデン大統領は強制収容を「アメリカ史で最も恥ずべき歴史のひとつ」と位置づけ非難し、「日系アメリカ人はただ出自のみによって標的とされ、収容された。連邦政府の行いは不道徳で、憲法にも反していた」との認識を示し、正式な謝罪を再表明している。
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