米国の人権監視団体「フリーダムハウス」がまとめた2022年の年次報告書によると、民主主義国家の数は2005年の89カ国をピークに減少傾向になり、2021年には83カ国になった一方、参政権や報道の自由などに制限を加えている専制主義国家は、2005年には45カ国だったが、2021年には56カ国にまで拡大したという。1968年に起きたチェコスロバキアでの民主化運動「プラハの春」や、2010年に中東・北アフリカ地域で起きた反政府民衆運動「アラブの春」によって独裁政権を倒した国々もあったが、その後の政情は不安定で混乱しており、民主主義を根付かせることの難しさを痛感させる。
民主主義に関しては、ウインストン・チャーチルが1947年に英国下院で行った演説が有名である。「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀に満ちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」
日本の民主主義は、明治維新後の薩長藩閥政治に対して、福澤諭吉らが紹介した西洋の自由思想を起点に板垣退助、後藤象二郎らの自由民権運動が広がりをみせ、紆余曲折を経て1889年大日本帝国憲法公布、1890年第1回衆議院議員総選挙及び国会開設、1928年第16回衆議院議員総選挙として初の普通選挙(有権者が人口の20%を超える)と進化を辿っていくことになる。
日本の現在の国会議員定数は衆議院は465人(小選挙区289人・比例代表176人)、参議院は248人(比例代表100人・選挙区148人)合計713人となっている。私自身メディアを通して目に触れる数多くの能のない議員を見るにつけ、選挙の度に国会議員を減らせ!と思うのだが、世界全体に目を向けると、人口比の日本の国会議員は非常に少ない。アメリカと比較されることによって、日本は人口当たりの議員数が3倍以上多いと指摘されるが、米は国会議員が極端に少ない。人口比で独は日本の1.5倍、英は4倍、スウェーデンは6.4倍である。また、日本は都市化と地方の過疎化の進展によって、一票の格差が違憲状態として取り上げられることが度々ある。国会議員数はピーク時から衆議院で▲32、参議院で▲5減らされているにも拘らず、人口が2008年の1億2808万人をピークに減少しているので、さらに国会議員数を減らすべきという圧力が大衆から向けられているのであろう。実は国会議員の問題は数ではなく、質なのである。
クレプトクラシーという言葉がある。日本語訳をすると泥棒政治。官僚や政治家などの支配階級が民の資金を横領して個人の富と権力を増やす、腐敗した政治体制を表す言葉である。日本のGDPは過去30年間ほとんど伸びていないのに、歳出は5割増加している。平均給与は1割近く減っている。消費税や社会保険料含め、一般人の税負担は増えている。政治は利権にまみれ、たかり体質が横行し、変革ができない。政権を握る人々とその取り巻きによる公的資金の横領と言ってももはや過言ではない社会に落ちぶれている。野党も同じ穴のむじなで、建設的な代案を出せない口汚い批判をするだけの万年野党ばかりである。
日本の選挙投票率が低いのもさもありなん、昭和30年前後の衆議院選挙では75%前後だったものが、平成後半から令和にかけては55%前後に落ち込んでいる。私自身も若者よ選挙に行かなければ、高齢者向け政策だけになっちゃうよと折に触れ警鐘を鳴らしているものの微力である。そんな中、新進気鋭のイエール大学助教・成田悠輔氏の「22世紀の民主主義」の話を聴いて得心した。18世紀に仏で活躍したジャン=ジャック・ルソー「社会契約論」の一説を引用して、選挙制度を基盤とした民主主義の脆弱性を指摘している。「選挙が終われば人々は議員の奴隷になる、選挙の間も実は提示された選択肢から選ぶことしかできず自由とは言えない、選挙は一瞬の希望であり、その後長期間の絶望である」(意訳)。
一方、SNS上に飛び交う流言飛語やそれぞれの主張が大衆の声なのかというと私は大いに疑問を感じる。何が真実で何がフェイクなのか一般人には判別できないほど、技術も進化し、手口も巧妙になってきている。右であれ、左であれ、自分の主張を開陳できることは民主主義の根幹に関わる権利であろう。しかし、SNSの怖いのは、投稿するような主義主張の強いインフルエンサーの意見に中道派が吸い寄せられ、さらにそれらをメディアが煽り立てて、結果として世論を二分するような傾向を強めていくことである。様々な国で起きている分断はこの現象である。折角、個々人が発信するテクノロジーを手にしたにも関わらず、社会が安定し、個人が幸せになっているのかといえば、否と言わざるを得ない。
先の成田氏の提案を私なりに咀嚼してみると、たとえば小泉郵政民営化のようなひとつの政策で、投票行動をする。民意を得たと称する政権はそれ以外の政策をどんどん進める。たった一つの事柄で全権委任したわけではないのに、結果全権委任してしまう仕組みが、現在の代議制民主主義なのである。22世紀の民主主義は、政党があってもなくてもいいのだが、様々な社会課題に対して複数の政策立案者が選択肢を提示する。それら提言に対して、第三者機関が事実(エビデンス)を提供してフェイクや間違いを排除し、それらに基づいて政策ごとに公正なテクノロジーを活用して個々人が投票する。これこそ将来の民主主義の形なのではないだろうか。インターネットでの投票や民意反映のデジタル化の実用はまだまだ先のようであるが、そろそろ100年以上民主主義の基本を成してきた代議制民主主義の卒業を見据えて、構想を始める時ではないだろうか。でなければ、勢いを増す専制主義がさらに幅を利かすことになりかねない。
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