避戦

きな臭い時代になったものです。近世の多くの戦争が資源や富の偏在を起因として起きています。近現代ではイデオロギーや政治経済的な角逐が原因となっていることが多いように思います。しかし、振り返ってみれば、太古から人類は戦争を繰り返してきました。考古学的には旧石器時代の1万5千年前の遺跡が今まさに内戦で揺れているスーダンで見つかっています。現代の戦争あるいはテロは複雑な要因を抱えています。しかし、富や土地の収奪などの概念がない太古から人類が戦争をしてきたことを思うと、人類は常に戦争の理由を探している生き物なのかもしれません。

1936年にイギリスのブリタニア・ユースというエリート青年団とナチスのヒトラー・ユーゲントという青年団がお互いの国旗(ユニオンジャックとハーケンクロイツ)を携えて共に行進している映像を見ました。ご承知のようにナチスはこの3年後にポーランドに侵攻し、それに呼応する形でフランスと共にイギリスはドイツに宣戦布告して戦争状態に入ることになりますが、時の英国首相チェンバレンはドイツとの戦争を回避するためにその間ずっと宥和政策を取り続けました。そして、多くの国民は第一次世界大戦で多くの友人や家族を失って、もう戦争はこりごりだという厭戦気分に覆われていたので、チェンバレンの戦争回避政策を支持しました。

1936年はドイツがドイツ西部、ライン川沿岸の非武装地帯であったラインラントに進駐し、ロカルノ条約を破棄し、事実上ベルサイユ条約を破棄した時期と重なります。その時イギリスが取った政策は国民全員にガスマスクを配ることでした。週50万個の生産体制を敷き、子供優先に試着訓練を強要しました。意味も分からずガスマスクを無理やりつけられた子供の中には泣き出してトラウマになった子もいるといいます。

同年、ナチスは既にユダヤ人迫害、有色人種差別などゲルマン優生思想に基づいた政策を推し進めていましたが、開催が予定されていたベルリンオリンピックを成功裏に終わらせ、国威の高揚を図るために、表向き全ての差別政策を封印して臨んだ結果、英米のボイコットを回避することができました。

そのような政治的駆け引きに無関心な多くの英国民は当時人気となったライド(屋外プール)や伝統行事であるフローラダンスを楽しんでいました。よもやまた戦争が起こるはずはないと思い込んでいたのか、敢えて戦争から逃避していたのかはわかりません。

1938年5月にはワールドカップの前哨戦として英独サッカー大会が開催されました。驚くことにイングランド代表選手は全員ナチスの敬礼をしてドイツ国歌を聴いています。多分、選手のほとんどがその敬礼を恥ずかしいと思ったに違いありません。平和を守るために(戦争を回避するために)、英外務省が指示を出していたことが後に明らかになっています。

1938年8月ドイツはオーストリアを制圧し、ウィーンに入城。制圧された形のオーストリアのほとんどの国民はヒトラーを大歓迎しました。ゲルマン民族=ドイツ人国家の統一の実現という民族的心情に訴えたことと、併合によって失業などの不満が解消されるという期待を国民が抱いたことによります。またヒトラー自身がオーストリア出身であり、故郷に錦を飾る格好になったことも大きいのかも知れません。

その1か月半後、チェンバレン首相は単独でドイツに飛び、プランZと呼ばれる戦争回避策を軸にヒトラーと会談しました。チェンバレンはチェコスロバキアのズデーデン地方割譲をヒトラーへの手土産にして、武力行使を思い止まらせようとしました。しかし、難航した交渉の末の結果は、ヒトラーの協定無視により英仏共に戦争準備が整わないまま戦争に突入することになってしまいます。

チェンバレンの宥和政策を歴史的に糾弾することは可能ですが、イギリス全体の厭戦思想の広がりや、新聞による戦争回避の訴えなどがその背景にあったことは否めません。
誰しも避戦を願うことでしょう。それは現代でもその気持ちに変わりません。先の戦争が生々しく記憶に残るうちは猶更、戦争を回避したいと思うのは当然です。誰も我が国に戦争を仕掛けるはずはない、避戦のために最後まで外交努力を続けるべきだと主張する向きもあるでしょう。しかし、外交交渉を有利に進めるためにも、他国に攻められないようにするためにも、国力が必要なのです。国力とは国民意志・政治力・経済力・軍事力・科学技術力・文化力・情報インテリジェンスの総力であって、その一つも欠けてはなりません。ウクライナの現況を見て、そのように思わないとすれば、あまりに頭の中がお花畑で埋まっているとしか表現できません。

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