和敬清寂(わけいせいじゃく)

和敬清寂とは、茶道の心得を示す標語である。それは、主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にするという意味である。わび茶の完成者として知られる千利休は「和」、「敬」、「清」、「寂」を「四規」として茶の湯の精神を後世に伝えた。

中国では紀元前から愛飲されていたお茶を、遣唐使が日本に持ち帰ったのは平安時代とされる。当時お茶はとても貴重で、天皇や貴族、僧侶だけしか口にすることができなかった。鎌倉時代に臨済宗を伝えた栄西が「お茶は良い薬です」と、時の将軍源実朝に献上したことが記録に残っているが、お茶と武士との関係はこの頃からあったようである。

南北朝時代には飲み比べの「闘茶」が流行し、その延長で宴会や賭け事に拡がったので、禁止令が出されたという記録も残っている。室町時代には(当時は高級であった)風呂上りに熱い茶を飲み、ご馳走を食べて贅沢をするというように上級社会の催事になっていったようである。

千利休は言わずと知れた日本一有名な茶人であるが、天下人豊臣秀吉の側近となってからは政事の表舞台に上っていくことになる。利休という名前は、のちに禁中茶会(1585年)にあたって町人の身分では参内できないため、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から与えられた居士号である。生前のほとんどは千宗易と名乗っていたが利休(利を休む)という名は商人を退き、茶人としてのみ生きていくことを意味している。

利休の名が台頭してくるのは1569年以降、堺が織田信長の直轄地となっていく過程で今井宗久、津田宗及とともに茶堂として召し抱えられたことに始まる。大河ドラマでもよく映されるシーンであるが、当時の戦国武将にとって、茶道具の名品を所有することは権力の象徴と言える大切なステータスシンボルであった。その茶器を手柄のあった部下に与えたり、それらの茶器を使って茶会を開く権利を行使することで名実ともに多くの武将を従えていったようだ。秀吉も信長と同様に利休を重用し、信長の政事手法を引き継いでいる。利休は秀吉の頼みに応じて1583年大坂城内の庭園空間に2畳の茶室(待庵)を造る。その折には茶庭の概念を生み出し、竹花入などの茶道具も創り出して己の茶の湯の世界を広げていった。180㎝の長身の利休と150㎝に満たない秀吉がわずか2畳の空間で茶の湯を嗜み、どちらがどのように主導して会話が成立していたのか興味は尽きない。

利休の最期はご承知のように、1591年秀吉から蟄居を命じられ、その後に切腹し死を賜ります。その理由は様々な説があって憶測の域を出ていません。秀吉より15歳年上の利休は実質的には秀吉のアドバイザーとして側近中の側近、特別補佐官とも言えるほど信頼を勝ち得ていました。しかし一方では天下人になった秀吉にとっては目の上のたんこぶのようになっていったのかもしれません。君主豹変すの前に利休は成すすべがなかったのかもしれません。

秀吉は1585年かの有名な黄金の茶室を完成させ、世間を驚かせました。質素を重んじる利休の「わび茶」の精神からいえば、全く正反対の所業です。後に秀吉が「茶の湯御政道」と名付けた政治利用の道具としての茶の湯と、茶人として精神性を追求したい利休の本心とが相容れない関係になることは必然であったのかもしれません。

茶室にある「にじり口」は高さ67㎝、幅64㎝ほどの狭い入り口です。誰しもがこうべを垂れ、身体をかがめてにじって茶室に入らなければなりません。茶の湯執心の者は武士・町人・農民を問わず、全ての人が平等です。服装・履物は一切不問、もちろん帯刀や武器の持ち込みは許されません(実際には茶室刀と呼ばれる護身用の数十㎝の木刀は持ち込まれました)。

ここには仏教の「結界」という概念が用いられています。結界とはある特定の場所へ不浄や災いを招かないために作られる、宗教的な線引きのことです。 仏教用語ですが、日本の神道にも同様の考え方が見られます。 お葬式などで見かける幕やしめ縄は、結界をつくるために飾られているものです。

日本建築に見られる「襖」「障子」「衝立」「縁側」などの仕掛けも、同様の意味で広義の「結界」です。 商家においては、帳場と客を仕切るために置く帳場格子も結界です。西洋式に鍵を掛けなくても、結界をもって個々人の空間を保持する日本の伝統文化を今でも見ることができます。茶室というある種の密室も、戦や下世話で理不尽な日常を離れ、その身を幽玄の世界に置いて心安らかに自らと対面するといった意味も感じることができます。

利休は古希でこの世を去りましたが、還暦を過ぎてから「胸の覚悟」の境地に至ったとされています。胸の覚悟とは茶の湯の「心構え」のことを言い、常に平静でいること・もてなす気概を持つこと・華美にしないこと・慎ましやかであること・客を疲れさせてはいけないということ・笑顔で客に帰ってもらうということ。天下の頂点を目指して天下人となった秀吉とは元来境地が違うのはむべなるかなといったところでしょうか。

後に「利休七哲」と呼ばれた利休の高弟7人の武将のひとり、古田織部は利休の後継者として茶の湯を大成し、今でいうところの「ぐい吞み」を敢えてひしゃげた形にするなどして大流行させました。この織部は秀吉亡きあと、恩顧のある豊臣家と徳川家の間を取り持とうと努力していましたが、大坂夏の陣で豊臣方に内通したとされ家康に切腹を命ぜられ自刃し、古田家は断絶に至ります。

利休、織部ともに戦を無くし天下静謐を目指してはいましたが、自身の意志を貫きつつも権力の前にその一生を終えました。二人ともに死を前にして一言の釈明もせず、あたかもその死を受け入れるかのように旅立っていきましたが、その遺志は現代にも大和心として脈々と息づいています。

100歳を超えた千玄室(裏千家前家元第15代千宗室)は茶の湯を海外にも広げる活動を精力的に行っていますが、その精神を「After you」譲り合う心であるとして「日本人の心」を伝え続けています。

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