日本紙幣肖像物語

先月から新紙幣が流通し始めた。キャッシュレスが進む中で、最後の新紙幣発行と思われる。先日、所有口座銀行の支店前を通りかかったので、ATMから新紙幣が出てくると思い、16000円(期待は新紙幣各一枚ずつ)を引き出してみたが、出てきたのは福沢諭吉1枚と野口英世6枚であった。後日、知り合いが渋沢紙幣を持っていたので、交換してもらい初めてホログラムを鑑賞した(厚木勤務時代の部長は渋沢家直系で顔立ちもそっくりだったことを思い出しました)。このキャッシュレスの時代に全ての新紙幣が庶民の財布に収まるにはまだまだ時間がかかりそう。

紙幣の肖像デザインは国のアイデンティティを表すシンボルである。多くの国は国家元首を紙幣の肖像画に採用しているが、日本において最初に紙幣の肖像画になったのは1881年の神功(じんぐう)皇后の一円券である。それまでの政府紙幣(明治通宝:日本には精密印刷技術がなかったので、フランクフルトの印刷工場で製造されたため別名ゲルマン札)には「龍」が印刷されている。しかし、図柄が龍では偽造しやすく、かつ偽造されても肖像画のように人々の記憶に残らないので、偽札の判別が難しかった。他国の例に倣えば、明治天皇がその肖像画となるべきところであろうが、神功皇后に落ち着いたのはどのような理由があったのであろうか。「これから強くて豊かな国になっていくんだ」という願いにふさわしい人物像として挙げられたとする説もあるが、明確な意図はわからない。

神功皇后は、明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていた(現代では実在を否定する学者もあり)。その人物像は日本書紀によれば、4世紀後半に摂政として70年間君臨し、熊襲征伐や、お腹に子供(のちの応神天皇)がいるにもかかわらず海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させたという記録が残っている傑物である。それをして当時の日本は朝鮮侵略を目論んでいたため、朝鮮を配下に収めた神功皇后を肖像画にしたという説もある。紙幣には「神功皇后」と印刷されているので、明治期には「皇后」として認知されていたと思われるが、実は大正期までは第15代天皇(初の女性天皇)として皇統譜に記載されていた人物である。1926年の皇統譜令により、正式に第14代仲哀天皇の皇后とされ、歴代天皇から外されている。

歴代天皇は万世一系(女性天皇はいるが、女系天皇はいない)で継承され、必ず初代神武天皇につながることが国体の基盤を成している。しかしながら、そもそも神武天皇は神である天照大御神の五世孫であるとか、三種の神器が海に消えた壇ノ浦の戦いや、以下に述べる皇統が分裂した南北朝時代など建国以来2684年(紀元前660年1月1日から数えて)の様々な歴史的事実を記紀(古事記と日本書紀)の記述に遡って考えてみると疑問符がつかないわけでもない。しかし、天皇という存在が神話の延長と考えれば、信じるか・信じないか・信じたいか・信じたくないかといった類の問題なのかも知れない。

日本銀行が設立されたのは1882年のことである。1887年(明治20年)に日本銀行券の肖像候補として選定された人物は、菅原道真(1888)・武内宿禰(1889)・和気清麻呂(1890)・藤原鎌足(1891)・聖徳太子(1930)・日本武尊(1945)・坂上田村麻呂(不採用)の7人である<(  )内の数字は紙幣発行年>。当時の人々にとっては全てよく知られた人物であるが、武内宿禰(たけのうちのすくね)に限っては現代人にとってはほとんど無名の人物に違いない。武内宿禰は記紀に伝わる古代の人物で、1世紀に景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。しかし、計算上余りにも長寿なため(300歳?)伝説上の人物とする説もある。和気清麻呂は天皇になることを企んだ道鏡を阻止した忠臣として天皇継承に纏わる話は非常に面白いが長くなってしまうので今回は割愛とさせていただく。

いずれにしろこの時期に肖像画として選定された人物は全て天皇の血筋か、天皇の忠臣である。大政奉還から明治維新に至り、天皇中心の国づくりを目指した明治政府としては当然の選定である。坂上田村麻呂は、学問の菅原道真と並んで武芸の象徴とされていた人物である。797年に桓武天皇に征夷大将軍を命ぜられ、それまでなかなか制圧出来なかった蝦夷(えみし)を降伏させたことで名をはせた人物である。1916年には丙五圓紙幣の候補として名前が挙がったが、時代は日清・日露戦争の直後、第一次世界大戦真っ只中。国粋主義的な時世に覆われた時代背景であったため、渡来系氏族であった坂上田村麻呂は紙幣の肖像には相応しくないとされて見送られたようである。

候補には挙がっていなかったが、1944年突然に五銭紙幣に採用された人物がいた。それが楠木正成である。楠木正成は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、後醍醐天皇(南朝側)を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献した傑物である。1392年に南朝側が北朝側に三種の神器を渡して、南北朝合体が実現したことから北朝が正統であるとされたため、楠木正成は悪党(反抗勢力)とされたが、のちの江戸期には儒学者によって忠臣として見直されるようになる。さらに明治期には南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)によって「南朝が正統である」という主張がなされると「大楠公(だいなんこう)」と呼ばれ国民に親しまれた。皇国史観の下、戦死を覚悟で大義のために戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られるほどの人物であったことが急遽採用の理由であろう。

敗戦後、日本はGHQの占領下に置かれたため、それまで紙幣に使われた皇国史観に基づく軍国主義的な肖像は認められないとして、これまでの肖像紙幣は悉く廃止された。日本武尊の千円紙幣の発行期間はたったの半年であった。そういった状況の中で聖徳太子だけは、当時の一萬田日銀総裁がGHQに対し「聖徳太子は『和を以って貴(たっと)しとなす』という言葉を残すほどの平和主義者の代表である」と主張して、その存続についてGHQを押し切ったと言われている。それが最近まで最高額紙幣の代名詞として流通した聖徳太子に纏わる逸話である。
戦後は主に国家再建にあたった政治家が肖像画として採用され、1946年発行の二宮尊徳(一円)から始まり、板垣退助(百円)、高橋是清(五十円)、岩倉具視(五百円)、1963年発行の伊藤博文(千円)まで続く。
1984年発行の夏目漱石以降9人(新渡戸稲造、福沢諭吉、紫式部、野口英世、樋口一葉、渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎)は、主に文化人や経済人が肖像に採用され今日に至っている。それぞれの時代背景が肖像選びに反映していることがよくわかる。
ちなみに戦後、大蔵省印刷局によって紙幣の肖像候補としてリストアップされたのは、光明皇后(第45代聖武天皇の皇后で孝謙天皇の生母)・聖徳太子・貝原益軒(儒学者)・菅原道真・松方正義(元総理)・板垣退助・木戸孝允・大久保利通・野口英世・渋沢栄一・岩倉具視・二宮尊徳・福沢諭吉・青木昆陽(蘭学者/儒学者)・夏目漱石・吉原重俊(日銀初代総裁)・新井白石・伊能忠敬・勝安房(勝海舟)・三条実美(尊王攘夷/討幕派)の20人であることが確認されている。既にキャッシュレスの時代になっており、渋沢栄一が最高額紙幣の有終の美を飾る大トリとなるのか、はたまた意外にも将来、渋沢を塗り替える人物が登場するのか、乞うご期待。近代日本の時代変遷を表す日本紙幣肖像物語、これにて完結。

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