ビッグデータ活用と組織の健全性

企業経営者は常に現状に何らかの不満を持っており、その現状打破のための新しいパラダイムやコンセプト、テクノロジー、トレンドには敏感である。敏感なことは良いことであるが、得てして万能薬を得られるかのような錯覚に陥り、十分な思慮がないまま形だけ導入して失敗することが数多ある。新しいシステムを導入しても、それを従業員が使いこなせなくては無駄な投資になるし、景気後退を理由に投資を途中で削ってしまい重要Module欠落のまま中途半端なシステム稼働をして全く当初の期待値を得られないばかりか、対投資効果マイナスという例もよく聞く話である。要は道具とそれを使う人間のバランスが重要ということである。使い方を知らなければ道具は宝の持ち腐れであるし、知恵を使うことによって何の変哲もない棒切れが命を救う道具に変わることもあり得る。

ここ数年でビッグデータという言葉はすっかり市民権を得たようで、その運用システム会社のみならず統計学の専門家などが表舞台に現れる状況になっている。ビッグデータでは、効率的に許容経過時間内に大量のデータを処理する卓越した技術、たとえば超並列処理データベースやデータマイニンググリッドなどが必要となる。応用は様々な分野で進んでいて、ゲノミクス・気象学・金融・ソーシャルデータ分析・軍事偵察・医療記録・大規模なeコマースなど多岐に渡る。この手の新しいマーケットやテクノロジーの発展について異議を唱える積りは毛頭無いが、その扱いについて私は上述のような懸念を持たざるを得ない。既にデータ消費者プライバシーの観点から、増加する保存データと個人が特定可能な情報の統合に懸念を示している専門家は多いが、ここでは企業という組織の中で、どのようにビッグデータを扱って成果を上げていくかという視点で論じてみたい。

第一に、膨大なデータを闇雲に分析しても時間と金の浪費であるので、企業は何らかの仮説に基づいてビッグデータを解析する必要がある。初期仮説が正しいかどうかの検証あるいは反証のデータとして使うということである。第二に、果たしてそのデータの母集団は検証に値する偏りのないものであるかも重要である。初期仮説を正しいと導くためにビッグデータが使われるとすれば本末転倒である。最近では夢のSTAP細胞と騒がれた実験データや映像が改ざん捏造ではないかといった疑惑が浮上しているが、それが事実とすれば理化学研究所やネイチャーといった「権威」はそれを見抜けなかったのは何故か大いに疑問であるし、真相究明は非常に興味深い話題である。

第三に、ビッグデータのもうひとつの側面はそのデータが過去あるいはほぼ現在のものであるということである。それらデータを使い将来こうなるであろう、あるいは今後こういう対応をしていこうといった応用がされるのであろうが、その対象が過去および現在の延長線上にあるという前提で応用可能なのかどうかは十分考慮されなければならない。消費材で言えば、あたかもこれまで先進国で歩んだ道をただSpeed Upして新興国が進んできた訳ではないことを我々が知ることとなったことに似ている。電話ボックスを経ずに個人携帯端末に至った多くの新興国はその一例である。インフラが揃ってから電化製品が広まった国と、インフラがない状態で電化製品が流れ込んできた国とでは電気供給のあり方が違う。今後の下水道や交通インフラの整備も同様、最新のテクノロジーとそれぞれの地域に合わせた導入のされ方が模索されていくであろう。つまり過去現在のデータは将来を保証するものではないということである。将来は予測するものではなく、自らが作っていくものとはよく言われることである。

一方これからはアジアの時代と言われており、成長の中心をアジアが占めると予測されている。一昔前はアジアという一括りの市場で見られていたが、中国もタイもマレーシアもインドもトルコもミャンマーもそれぞれの歴史的背景と大きなGlobal化の流れの中で、それぞれに応じた社会発展(あるいは瓦解)を遂げていく。多くの企業がそれらの国々で市場を獲得しようとすれば、それはそれぞれの国の人々、その生活、社会体制、民度、文化、慣習などをまじかに観察して行われて戦略を構築していった方がGoalに早く近づけるのではないかと私は感じる。

多くの日本企業に言われる「変化対応の遅さ」は、企業の組織文化によるものではないかと最近特に感じる。多くの企業は本社が偉くて、現場は指示を受ける立場といった既成概念がまだまだ強いのではないだろうか。組織図ひとつ取っても例のピラミッド型がほとんであろう(敢えて組織図をさかさまにしている企業もあるが、従業員が上にくるのは稀で、せいぜい上は株主)。上位下達がそのまま残った企業でビッグデータを本社が解析し、現場に指示を出す。このような形で果たして機能するであろうか。ほぼ100%機能しないであろう理由は①どんなにわかりやすく、あるいは分析されたビッグデータが本社に提供されたとしても、その処理を正しくできる能力が本社にあるのか、能力不足・工数不足を理由に処理に時間が掛かれば他社に先を越されてしまう、②現場から遠く離れた本社で大きな決断が正しくできるのか、③本社でなされた大きな決断に現場が唯々諾々と従うのか、といった企業の組織健全性といった課題がそれである。東日本大震災の時に現場は一流、マネジメントは三流などと言われたが、現場の強さが日本の成長を支えていたことは衆目の一致するところである。Global化によって現場が本社から遠ざかったことと「変化対応の遅さ」は無縁でないように思う。

増々多様化する世界で、中央集権的な組織体制は見直す時期に来ているのではないか。業績に苦しむ企業の構成員は経営陣は当然のことながら、管理職も一般従業員も変革の必要性を感じているに違いない。ただ人はお仕着せの変革には抵抗する。経営陣の意向にそぐわない人間を排除して外部コンサルタント任せのトップ指針で変革を図ろうとしても大企業ほどうまくいかない。なぜならトップ主導の変革に肚落ちしない多くの従業員の存在があるからである。大企業ほど自ら変革に参加させる体制を作って小さなビジネスユニットの責任を持たせ、本社は活動を管理するのではなく、結果を管理し、現場に自由裁量を与える。本社はビッグデータ分析による提案、そして組織間の調整といった控え目な存在に変わる。本社のアシストを得た現場は事業決断を行い、それが現場で成果を上げているかどうか自らの目で確認し、修正改善していく。評価も上司の評価一辺倒ではなく成果配分型に変えていく。こうした組織変革を促すチャンスにビッグデータを機会として捉えるというのは奇策に映るであろうが、本社と現場が乖離していて血流不全のまま、ビッグデータを本社主導で進めても必ず失敗(対投資効果がマイナス)の憂き目を見ることになろう。

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