1914年6月サラエボでオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が暗殺されたことを引き金に起きた第一世界大戦は第二次世界大戦に比べて日本人の記憶に実感としてほとんど残っていないのが実情であろう。
しかしながら、その時代背景は今日本を取り巻く状況に酷似している。その意味で今一度第一次世界大戦を考察してみることは意味深いことであると思う。ひとつは今でもボスニア・ヘルツェゴビナでは英雄視されるボスニア系セルビア人の暗殺実行青年ガヴリロ・プリンツィプの存在。初代韓国統監を務めた伊藤博文を暗殺した安重根の記念館が今年1月に中国のハルビン駅に開設されたことを想起させる。ガヴリロ・プリンツィプのオーストリアでの存在は、身ごもっていた皇太子妃をも殺した残虐な人間として憎しみの対象となっている。暗殺グループは7人で構成されていたといいガヴリロ・プリンツィプは下っ端の実行犯。決して発作的に銃弾を向けた個人の単独事件ではない。それまでセルビア人の感情を逆なでする事柄が色々あったと記されている。だからといって暗殺が正当化されるはずもないが、事が起こってからではもう遅い。事件が起こった理屈付けは必ずできる。正当性があろうがなかろうが可能ではある。勝てば官軍、負ければ賊軍のごとく歴史的強者がその理屈を正当化していくだけである。日本と中韓の間に横たわる歴史認識という名の政治的かつ感情的なしこり。北朝鮮やロシアも一筋縄ではいかない相手ではあるが、会話があるという点ではまだマシである。偶発的な事件が起きないように最大限の外交努力が必要である。そして万が一その偶発事件が起きたら、早く火消しに回らなければならない。誰しも戦争は望んでいないが、ギリギリのせめぎ合いが起きうることは想定しなければならない。
1年以内には終結するであろうと大方が予想した第一次世界大戦は4年以上続いた。戦死者は1000万人以上と言われる。皆、なんて馬鹿なことをしたんだと思った。オーストリアには兄弟国のドイツやイタリアが加担した。当時新興国として台頭してきたドイツに我が物顔で欧州の地を荒らされては堪らないと、フランスやイギリス、ロシアがセルビア側についた。日本も日英同盟を盾に連合国側について、ドイツが権益を持つ青島や、植民地支配していた南洋諸島を攻略した。結果は皆さんご承知の通り連合国側の勝利に終わるが、4年以上に亘る大戦で欧州本土は荒廃し、第二次世界大戦でも同様に大きく傷ついた経験を経て、1950年に発表されたシューマン宣言を発端に、ヨーロッパは結束していかなければならないという意識が広がり、復興と平和の実現を目指した欧州連合の形成に繋がっていく。当時の新興国ドイツの存在は今の中国を想起させる。大国中国がこれまで虐げられ、失ってきたものを取り返そうという中華思想が頭をもたげてきた状況とドイツの反ユダヤ思想は底流で同質のものがあると感じられないであろうか。これが二つ目のポイントである。
不戦の誓いは日本の平和憲法で高々と謳われている。昨日、臨時閣議で政府は集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更を決定した。私見としては解釈というグレーな対応ではなく、憲法改正そのものの議論をすべきであるという立場ではあるが、政治の世界は裏も表も入り乱れ、単純ではないし、危急の事態に備え、時間をいたずらに掛けている場合でもない状況かもしれない。某政治家が「集団的自衛権の行使とは(行先のわからない)アメリカが運転する車の助手席に乗るということですよ!」といっていたが、喩としてはわかりやすい。車に乗るのが安全か、乗らずに歩いていくのが安全かは、その状況環境認識に寄ろう。不戦の誓いだけで自国の国民の生命・財産が守られると思うのはいささか楽観的に過ぎる。戦争を起こさないために事態に向かい合うのであって、背を向けたのでは後ろから斬りつけられる。その危機意識あっての議論であるべきで、どうぞどこからでも斬りつけてきなさい、潔く世界平和を叫んであの世にいきますと宣言する国家に残る人がどのくらいいるのだろうか。これまで何もしないで今の日本の平和があるわけではない。これが三つ目の視点である。
日本は第二次世界大戦敗戦後、米国を中心とする連合国から全くの無力化を意図して占領されていた。ドイツが4年で占領を終えたのに対して、6年半も日本が占領下に置かれたのは、途中から戦略変更があったからである。1950年の朝鮮戦争でソ連の朝鮮侵攻があり、西側陣営の防波堤を日本に作らざるを得なくなってしまった。日本の警察予備隊を増強し、「武力を全く持たない」はずの日本に自衛権という名の防戦権を与えたのは他ならぬアメリカである。そこから日本の自衛隊の解釈は訳の分からぬ理屈付けに終始してきた歴史がある。最後の最後に自国を守るのは自国民である。敗戦後の歴史によって、日本の自衛権発動はその発想そのものを縛られてきた。今後、この縛りは変化していくものと思うが、当分無くなりはしないだろう。親日国を増やし、アメリカのみに頼る体制を徐々に変化させ、脅威と正面から対峙し、しかし必要以上の緊張を回避して、不戦の誓いが単なる「戦争反対」のシュプレヒコールにかき消されることの無いように、実効性のあるものにしていくことが平和への不断の努力であると思う。
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