今年に入って歯を一本失いました。近所の歯科医に何軒か行きましたが、話や治療に納得できずに、結局高校時代の同窓生の歯科医を頼って都心の大学病院まで出掛けました。気心が知れているので、残された人生時間を考え不安に思うことを十分納得できるまで話が出来て良かったと思っています。結果として自ら抜歯を選択しましたが、これからの毎日のデンタルケアについて自分なりのスタイルが確立できたかなと思っています。そんなこともあって、たまたまテレビの番組欄で見たプロフェッショナル仕事の流儀という番組の「『ぶれない志、革命の歯科医療』歯科医・熊谷崇氏」を視聴してみました。
熊谷氏は、自身の診療所に通う子供の8割が20歳になっても虫歯が一本もない、70~80歳の高齢の患者さんも永久歯が数本しか欠落していない等、世界屈指の実績を上げています。その根底にある氏の哲学は患者に自分の口の中の状態を良く知ってもらって、自分の歯を守りたいという意識を強く持ってもらい、虫歯や歯周病にならないような予防を徹底するというものです。初診の患者にはすぐには治療に取り掛からず、口の中の写真を10枚以上撮影し、唾液検査を行い、歯科衛生士が丁寧にクリーニングをし、口の中を清潔に保つための説明をし、数回の通院ののち、いよいよ治療に取り掛かるといったスタイルです。
氏の治療方針に同感し、開業医を始めた歯科医夫婦が紹介されていましたが、実費3000円の唾液検査を受けてもらえる患者は1割しかいないと自信を無くしていました。多くの患者が時間がないので、とにかく痛みを取り除いてくれればいいとやってきます。唾液検査によって個人個人の虫歯菌を中和する力の強弱が判定できるのですが、目先の患者の希望をまず満たすのが医師の役目なのではないかと悩んでいました。氏が山形・酒田で今のスタイルでの歯科医療をはじめた35年前、同様な経験をしています。氏のやり方は患者に全く受け入れられず、ときに患者に罵倒されることさえあったといいます。診療所は患者に敬遠され、赤字に陥り、スタッフの給料を自身の預金を取り崩して払っていることもあったそうです。それでも氏はどんな苦境に立たされようと、自身の考え方を曲げずに貫きます。なぜならそれこそが「真の患者利益」につながるとの信念を持っているからです。その地道な患者教育が、次第に患者の意識を変えて、最終的には信頼を勝ち得、今の世界的な実績を確立するに至ります。「真の患者利益」とは一生を通じてどのような治療が望ましいのかを突き詰めた結果と言えるでしょう。歯は1度抜けたり、虫歯のために削ってしまえば決して元には戻りません。そうならないために、歯周病や虫歯の原因となるバイオフィルムと呼ばれる細菌の集合体を歯科医だけでなく、個人の意識改革によって極力排除している訳です。歯磨きだけではこの細菌は取りきれません。デンタルフロスやマウスウォッシュなどのホームケアに加え、歯科衛生士による定期的なメンテナンスが必要だと患者に強く、しかし納得のいくまで説明します。根気のいる仕事です。氏自身も昔を思い出して、本当に毎日一人ふたりでも説得するのに疲れ果てたと述懐していました。
私も遅まきながらこの歳になって歯の大切さをしみじみ感じます。多くの人が歯科治療のドリルの音や振動は嫌いに違いありません。だから痛くならないとなかなか歯医者に行こうとはしませんし、行ったら行ったで早く痛みを取り除いてもらって、治療が終わるまでの辛抱だ、できればもう来たくないと思ってしまいがちです。振り返ってみると、失った歯の周辺はそれまでに何回か腫れてしまい歯科医に治療に行きました。当時飛行機に乗る機会が多かったので、気圧の変化が良くなかったのだろうかと思ったりもしましたが、やはりホームケアが不十分であったのだろうと反省します。
実は番組を観ていて、過去30数年の調達の仕事が蘇ってきたのです。事業が赤字に陥りそうになると「緊急コストダウン」という指令が下りてきたことは何度となくありました。業務ですから、取引先に対して状況を説明し、協力を仰ぐといったことを幾度となく行いました。自社内でもVAやコストダウンなど知恵を絞りましたが、圧倒的に外部の取引先に協力コストダウンを強いていました。まるで虫歯を安易に削り、目先の痛みを取り除き、詰め物をして、治ったと思いたい気持ちが先行していたように思います。しかしビジネスが巧くいかない真の原因は根本的に解決されることはなく、目先改善したように見えても実は歯の土台が弱り、しばらくすると神経にまで細菌が及んでいたことに気付き、最終的に歯を失ってしまったようなことはなかったかと。「緊急コストダウン」は事業がうまくいっていない、つまり売り上げが計画通り上がっていない、円高が急にやってきた、競争環境にない高額部品の突然の値上がりに他の部材の値下げを要請するなど対処療法にすぎません。特に売り上げが想定通りにいかない場合、コストダウンをしてもまず成功はしません。なぜなら売れないということは仕込みが滞留しているということで、コストダウンしても追加オーダーするまでに至らないので、その効果を得ることはほとんどありません。5%コストダウンできましたといって調達の成果を誇示しても、購入実績ひいては販売実績にまでつながらなければ、コストダウンの果実は取れません。こういう場合は調達パワーを新規機種に向けるべきで、売れない現行機種のコストダウンにリソースを充てるべきではありません。失敗に気付いたら早く手仕舞いして、うまくいかなかった原因を分析して次に賭けるべきです。
過去、ある機種の主要部材で高額な半導体メモリーを計画に基づいて購入したものの、販売が振るわず、大量に余ってしまったことがありました。余っただけなら、それを活用して次の機種で流用開発するという手段もありますが、このメモリーはあっという間に市場で半値の価値しかなくなってしまったため、流用しても次機種の価格競争力がありません。事業の存亡に立たされるほどの大きなビジネスインパクトであったので、事業長からは、「何とかしろ」との命が下り、本当に恥ずかしながら購入元に買値で引き取ってもらうという交渉に出かけました。とても成り立つ話ではないとほとんど諦めの気持ちで向かったのですが、その購入元は親切かつ寛大にも要求通り買い上げてくれました。本当に信じられないことで取引先には心から感謝をしました。社内的も良くやったと評価され、事業長もその時は大事まで至らず事なきを得ました。今から20年近く前のことです。しかし、今になって振り返れば、購入元のメモリーメーカーは他社と合併の後今でも苦難の道を歩んでいます。当該事業は10年以上前に消滅していますし、その事業長もその後、他の事業長に就きましたが成果がないまま会社を去りました。
目先を取り繕っても、真因が解決されなければ、歯科治療も事業も最後には年貢を納める時がやってきます。目先の利益や社内での立場を維持するために無駄にした時間とお金はなかなか表面には現れてこないものです。調達の仕事は地道なことが多いと思いますが、下流業務に留まることなく全てのステークホルダーの「真の事業利益」に向けた行動を如何に上流で起こしていけるか己の哲学や信念をもって着実に行っていきたいものです。
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