2か月ほど前の米New York Times誌に”As Minimum Wages Rise, Restaurants Say No to Tips, Yes to Higher Prices.”という記事が載った。最低賃金が上がって、サーバー(ウェイター・ウェイトレス)の生活が保障されるようになるのであれば、チップは不要。でもメニューの値段は上がりますよ、という論旨である。この記事を多くのメディアは、「レストランにおけるチップの習慣を廃止する動きがアメリカの一部で広がっているが、多くのレストランは静観の構え」と報じている。しかし、単純に捉えると最低賃金が上がるので、チップは不要です。その代わりメニューの値段は上げさせていただきます。つまりお客の支払いは何も変わらないということである。チップが無くなることによってこれまでも大したサービスとは思われなかったサーバーの接客の質がさらに落ちるかもしれない。ひいては顧客満足は低下するかもしれないという含みを私は感じるが、厄介なチップの習慣に煩わされなくなるのは歓迎だ。
そもそもチップという習慣は何故あるのかを紐解くと、イギリスの貴族社会に起源があるようだ。昔の接客サービス(給仕・ポーター・ドアボーイ等)は貴族の豪邸で始まり、働く場所だけは与えられるが無給であった。それゆえ、何かとお客様の世話を焼いてはチップをもらって生計を立てていたそうである。その流れが移民と共にアメリカ大陸に広がり、定着したもの。つまりチップの習慣は安い賃金(あるいは無給)と不可分の関係にあると言える。生計を立てられないほどの安い給料にキリスト教の施しの精神が加味されて広がっていたものであろう。事実、多くの欧州の国々では最低賃金が保障されるようになってチップの習慣が無くなっていった経緯がある。遅まきながらアメリカでもそういった動きが出てきたことは、逆説的にはそれまでの大国アメリカの行き過ぎた二極化を物語るものでもあろう。
私が毎月海外出張に出かけていた頃は、この国はチップはどうするのか気にして行ったものである。アメリカ居住が長かったので、チップの習慣や計算には慣れていたが、(昔はランチ10%、ディナー15%といった感じだったが、いつの頃からかランチ15%、ディナー20%にチップもインフレ化した。観光地ではチップを置いていかない外国人も多いので、勘定に20%のサービス料が予め加算されている場合も多い。それゆえ気の良い人は二重にサービス料を払ってしまうこともあるので要注意)国や場所によっての使い分けは自分のCommon Senseで判断しなければならなかった。
日本の物価は世界一高いと言われた時期に私はアメリカで生活し始めたので、アメリカは何でも安いなあと毎日感じていた。ほとんどの支払いをカードでしていたので、キャッシュで払った時の感覚より実感は乏しかったが、慣れた頃には「なんだ、チップを加えればそんなに安くないな」と感じたものだ。数人でレストランに行くのであればまだしも、20人くらいの団体で行けば15%と言えどもチップは数百ドルになる。ひとテーブルでそんなに稼ぐなんて何て理不尽なんだと思ったりもした。
チップ本家本元の英Finacial Times誌はこのアメリカのチップ廃止の動きを社説で取り上げ、不透明のお金のやり取りがなくなるのは歓迎すべきものだと論説している。米Wall Street Journal誌はチップをもらえるホールの従業員と料理を担当する厨房の従業員の間に不公平感(手取りは2倍の格差があるとも言われる)が生まれ、調理人には優秀な人材が集まらないという問題を指摘する。チップ廃止によって、経営者が収入の配分権限を持つことで腕の良いシェフを集めやすくなるであろうという趣旨を報じている。確かに工夫がなくて、昔から同じまずい料理を提供しているレストランは多いので、顧客満足に一役買うかもしれない(是非そうしてほしい)。カード支払いのチップは全従業員で平等に分けるということも聞いたことがあるが、Cashのチップは明らかにテーブル担当のサーバーのポケットに無造作に吸い込まれていく(税金は払っていないでしょうね)。日本の料理屋と比べ、アメリカのそれとはFrontとBack Yardの位置づけが(一部を除いて)全く反対いうのは日米文化比較という観点からも興味深い。
日本には「心付け」という習慣がある。旅館で仲居さんにそっと手渡し、より良いサービスを期待するもの。贔屓の芸者に少しばかりの小遣いを渡し好意を示すもの。冠婚祭での祝儀。引越屋さんにお昼代と称してあげる場合も多い。ポチ袋とは目下のものへの「わずかばかりの謝礼」を表すが、その語源は「これっぽっち」から来ているという説がある。なんとも控えめな言い方で、日本の古き良き時代を彷彿とさせる。「心付け」はあくまで感謝の意を伝えるものであるのに対して、チップは生計を立てるために必要なものという大きな違いがあることを認識しておきたい。サービスが良かったらチップは渡すけれども、サービスが悪かったらチップを渡さないというのは歴史的背景を考えれば本来の形ではない。グラスや皿を持ってきてくれたことに対する報酬(感謝ではなく)としてチップがある。お客から従業員への直接の給料というわけだが、日本人としては西洋の階級社会の残滓と考えるほかない。それが変わり始めたというのであれば、唯我独尊のきらいがあるアメリカの変化として歓迎したい。
私は、内外問わず一部にあるAmerican Standardが正義で、Global Standardになるべきという考え方が、American Standardと言えどもGlobal Standardに合わせて変わっていくようになってきた一つの例だと受け止めたい。全く違う領域の話ではあるが、アメリカは1875年に締結されたメートル条約の原加盟国であるにも関わらず、140年経ってもヤード・ポンド法を優先して使っている世界唯一の国である。いずれメートル法を法律で表示させるようにするのか、生活では一切困っていないから関係ないとこれからもうそぶいていくのか。アメリカに対等な二国間関係を求める中国との間に難問山積みの状態では、メートル法は取るに足らない事柄であろうが、超大国アメリカが転機にあることは誰の目にも明らかである。世界の警察として力づくでHard Powerと資本主義を行使してきたアメリカが、どのように内部変革を遂げつつ、巧みにSoft Powerを操るのか。超大国とは言えなくなったアメリカではあるが、中国やロシアの覇権主義に対抗できるのはアメリカだけである。多極化した世界にこそアメリカへの期待は以前よりも増して大きい。
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