仏パリで同時多発テロが起きた。13日の金曜日というキリスト教にとって忌まわしい日を選んだとも言われる。死者は129人、負傷者は352人と報道されている。有志国連合によるシリアへの空爆が実行に移されて、このような事態は想定できたが、仏当局の厳戒治安体制の中でも悲劇は起きてしまった。仏オランド大統領は非常事態を宣言し、早速IS兵への容赦ない報復を行うと国民に約束をした。
2001.9.11米同時多発テロに対して報復を宣言したブッシュ大統領の声明がよみがえる「これはアメリカへの宣戦布告だ!」(この時も911はアメリカのEmergency Call Numberの日に合わせたのかと言われた)。その後のアフガニスタン侵攻、イラク戦争、アルカイダやタリバンへの空爆、そしてウサマ・ビンラディンを10年かけて追い詰めて殺害した。イラク戦争の口実とされた大量破壊兵器は2004年のCIAデビッド・ケイ特別顧問の「我々は見通しを誤っていた」証言や、情報源となった国防総省の専門家の自殺などを巡って、どうやら「まずイラク攻撃ありき」で根拠はなかったというのが真相のようである(のちに911はアメリカによる自作自演の陰謀説まで飛び出した)。アメリカのテロとの戦いはいまだに続いているが、結果はテロの拡散を招いてしまったという現実に今我々は直面している。
テロ行為は許されざる行為であり、オランド大統領の「法の枠内であらゆる手段を使う」という声明に同意はする。しかし同意する一方で、報復の連鎖が問題の収束に向かうどころか火に油を注ぐ、あるいはISのシナリオ通りとさえ考えられなくもない。
このブログで2年前に「一神教と多神教」ということを書いた。世界の55%以上が一神教の何らかの信者で、代表格のキリスト教徒とイスラム教が中東地域さらには欧州に場を広げて衝突している。仏同時テロ声明と思しきものの中には「十字軍」の文字がまたも現れた。1096年から始まり200年近く続いた十字軍遠征から1291年エルサレム王国滅亡に至るキリスト教徒とイスラム教の対立の根源とも言える史実である。「アラビアのロレンス」で描かれた第一世界大戦下の英国の三枚舌外交は、パレスチナ問題を生み、クルド人の国家喪失という現在につながる悲劇の遠因ともなった。ユダヤ人悲願のイスラエル建国後もアラブとの民族対立は和解という形で何度も試みられたが、何度となく頓挫している。40%そこそこの多神教ではあるが、代表格にもなり得る唯一の原爆被爆国日本が果たせる役割はないものか。日本は無宗教と言われたりするが、多神教の寛容の心は、底流に流れている。残念なことに全体主義国家の多神教信者は、その信力を外部に発揮することは叶わないので、日本が先頭に立って発信しなければならない存在であろう。
日本も問題を抱えている。近隣の中国や韓国との歴史認識や領土問題である。中国はユネスコを舞台に南京大虐殺を声高に喧伝する。彼らの主張で世界記録遺産に登録し、日本を悪人化することに成功した。韓国は従軍慰安婦問題を常に持ち出す。竹島や尖閣列島、北方領土問題も、まるで判をついたように「古来我が国の領土である」という史実らしきものを矛(ほこ)にお互いが応戦をしている。いくら事実を突きつけても納得いかないとごねれば政治問題の解決はできない。経済問題は基本損得勘定なので、何らかの解決に向かう。というのもお互いの時間も損得勘定の要素であるから、未解決の課題を放っておくことは経済的に成り立たないからである。
一方、政治問題は基本的に解決すべき時間のDead Lineはない。かの鄧小平が1978年に尖閣列島問題を「次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」といって問題の棚上げをしたことは有名である。問題の先送りで表面だった対立を避けたのである。これは長い波乱の歴史を持つ中国4000年の知恵であり、白黒はっきりさせずに当面の課題に集中する兵法であった。
テロの問題もテロはけしからんだけでは解決への道筋は見えてこない。ジハードは何もイスラム教だけの専売特許ではない。キリスト教も聖戦だというし、日中戦争さなかの日本でも聖戦の垂れ幕が下がっていた。政治問題の解決に事実や正義の押し売りは邪魔になることがある。問題の先鋭化を招く恐れ大であるからだ。
なぜ、ごねるのか?なぜ、命を賭してまで主張するのか?そこに焦点を当てなければならない。乱暴に一言でいえば、これらの問題の根っこには「不公平感」があるのではないだろうか。相続問題はいくらもらえるかが問題の核心ではなく、ほとんどが「兄貴が1000万円で、なんで俺は300万円なんだ、あいつにそんなに取られてたまるか」という不公平感が原因という。多くの途上国は資本主義時代の列強の負の遺産を引き継いでいる。彼らに搾取された、虐げられた、今も騙されて働かされていると思っている。日本は文化文明を中国から盗んだくせに、戦後奇跡的な発展を遂げ豊かな生活を享受している、けしからん、今こそ中国の時代だと大国主義を振りかざす。
昨今は「資本主義の終焉」と言われたりもするが、資本主義を遡れば1600年に設立された東インド会社に始まる列強の力を背景にした、土地と資源と労働力の特権的搾取が始まりとも言える。産業革命という知的イノベーションを梃に資本主義は20世紀に全盛を迎え、富める者はさらに富み、搾取される者は世代を通じて虐げられてきた。前者の道徳観は経済成長の名のもとに朽ち果て、後者の救いの受け皿となったのは家族や友人に優しい周辺の人が信じる宗教がそのひとつだった。
真実が必ずしも人々を助けるわけではない。そして時には嘘が人を助けることもある。知らぬが仏というのは実生活でも大いに感じるところが多いであろう(同義の英語もあるーIgnorance is bliss-無知は至福である)。
この世に絶対的正義はないし、事実かどうかよりも、感動させられるかどうかが人を動かす力になる。歴史も為政者の都合の良いように紡がれたもの。一神教の信者が信じている聖典や経典もほとんどが作り話。でもこのStory性が人々を安寧にするのでしょう。自分に自信があって安定している人ほど宗教と距離を置くようになります。何が真実で、何が正しいかという論旨の応酬では政治問題は解決に向かいません。イソップ寓話の「北風と太陽」の話を今こそ思い返したいものです。解説にはこう書いてあります「手っ取り早く乱暴に物事を片付けてしまおうとするよりも、ゆっくり着実に行う方が、最終的に大きな効果を得ることができる。また、冷たく厳しい態度で人を動かそうとしても、かえって人は頑なになるが、暖かく優しい言葉を掛けたり、態度を示すことによって初めて人は自分から行動してくれる」。
真実を知る必要がないとは決して言いません。国同士が衝突していても自由な人々は国境を越えて人と人のつながりを作っていきます。情報化社会は玉石混交ですが、以前よりも隠し事のできない環境を提供しています。政治問題にはまず相手を思いやり、その人の心を動かす感動Storyがあって、それを補強する上での史実や論理が必要になります。この順序が逆になると政治問題の解決は遠ざかっていくことになるでしょう。ISのようなイスラム過激派に欧米社会が直接会話することは難しい。イスラム教にもローマ法王のような立場の人がいれば、いいのですが。
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