モンゴルの歴史

モンゴル人と言えば、日本では大相撲で活躍している力士がまず頭に浮かぶ。朝青龍や白鵬をはじめ、相撲史にその名を遺す大横綱がおり、現役3横綱は全てモンゴル出身である。見た目が日本人と変わらないので、よく調べないと日本出身力士かどうか見分けがつかない。そんなモンゴルは国土が日本の4倍、人口は300万人、2014年の一人当たりの名目GDPランキングでは110位、$4000強と中所得国の中位に位置する発展途上国です。しかし、アジアではミャンマーに次ぐ第二位の経済成長率(7.7%)を誇り、豊富な鉱物資源を背景にこれからの発展が期待されています。

一般にモンゴルと言えば、正式名称モンゴル国のことを指しますが、中国内には内モンゴル自治区(面積は日本の3倍、モンゴル族は400万人と言われる)があり、彼らはモンゴル国のことを外モンゴルと呼びます。
モンゴル国はソ連に次いで世界で二番目の社会主義国で、成立は1924年。その後は極左路線を推し進め、日本が樹立した満州国(1932年~1945年)とモンゴルの国境線をめぐって発生した1939年のノモンハン事件では、ソ連軍と同盟を結んで日本の関東軍と戦火を交えています。終戦間際のソ連の宣戦布告の2日後、1945年8月10日にはモンゴルも日本に宣戦布告を行っています(国家承認を得ていないので戦勝国ではない)。

モンゴル国の公用語は勿論モンゴル語ですが、モンゴル文字は特殊なため、現在ではロシア語に使われるキリル文字を流用しており、文化的にもロシアの影響を色濃く受けています。
モンゴルが社会主義の旗を降ろしたのは最近のことで、1992年。その際に日本からのODAで発展を遂げたこと、そしてその援助が国内で大きく報道されたこと、加えて大相撲でのモンゴル出身力士の活躍などが相まって、今のモンゴルにおける親日につながっています。
一方、中国の内モンゴル自治区は、前出の関東軍が清朝の愛新覚羅を元首に据え、敗戦まで実質支配を行っていました。しかし、中華人民共和国建国以来、漢民族の移入により8割以上が漢民族で構成されるようになりました。公用語は中国語とモンゴル語ですが、外モンゴルのそれとは違う方言ですし、モンゴル文字が継承して使われているため、外モンゴルの若者は判読困難になっています。

モンゴル人はもともとは遊牧民です。古来、平原を東西南北縦横無尽に駆け巡っていたものと思いますが、中国の戦国時代(紀元前403~紀元前221年)には中国人と同化していったとされます。秦の始皇帝死後の内乱の中で、モンゴル人は騎馬力を発揮し、冒頓単于(ぼくとつぜんう)という君主が匈奴という国家を拡大しモンゴル高原を支配するようになりました(紀元前209~紀元前174)。その後は中国との間で数百年に渡るつばぜり合い、主従関係、群雄割拠を繰り返しながら、チンギス・ハンの登場を待つことになります。

チンギス・ハンは1200年代から周辺の遊牧民を傘下に収め、1222年にはイスラム王朝を滅ぼし、その後継のオゴディ・ハンがポーランドやハンガリーにまで戦線を進めました。クビライ・ハンの時代には2400万㎢(現在最大領土のロシアは1700万㎢・歴代最大領土は大英帝国の3370万㎢)もの領土を治める連合体を形成しました。今のモンゴル国の国土の15倍の広さです。
クビライ・ハンは1271年に国号を大元という漢字に改め、中国を統一します(元朝)。元朝は100年弱で滅びましたが、クビライ王統の残滓はモンゴル高原へ退却し、さらに100年大元の国号を使い続けていました。その後は政治的空白を経て、明朝との和約を結び地域部族としてその存在を維持していたようです。

1500年代に周辺部族で頭角を現したヌルハチ(女真族)に降伏して取り込まれ、これが満州となり、のちの清朝になっていきます。清朝の275年に及ぶ統治下では蒙地保護政策を受け、モンゴル族の王侯たちはこの頃から自治を認められていました。前出のように1932年に日本が満州国を成立させると、内モンゴル東部は満州国に組み込まれました。関東軍は後に内モンゴル西部にも侵入して中国軍を追い払い、1937年に厚和(現フフホト)で蒙古連盟自治政府を成立させ配下に置きます。1945年の日本の敗戦によって、外モンゴルと内モンゴルの合併の動きもありましたが、ソ連と中華民国との間の駆け引きで、内モンゴルは自治区として中国に留まり、外モンゴルは独立を認められたという歴史的経緯があります。

戦争は大勢の罪のない人々を巻き込むといった戦禍のみならず、その後、多くの民族の分断を引き起こしています。モンゴルは過去一代帝国を築き上げましたが、今の外モンゴルと内モンゴルは同じ民族でありながら、国の形態が大きく違って文字も文化も異なるものとなりました。ドイツのように国家統一に向けての内から湧きあがる民族意識もなくなっているのかもしれません。多くの民族が今でも辛酸をなめています。敗戦によって日本が分割統治されなかったのは、本当に幸運なことであったと実感するとともに、日本も民族の分断に関わっていたことを真摯に振り返る必要があります。このように見てくると、やはり日本民族は世界で特殊な存在であると認識せざるを得ません。弥生人が渡来して縄文人と交わったのは紀元前と言われていますので、日本建国2700年はあながち神話の話とばかりは言えません。中国4000年の歴史は上述の通り異民族の興亡の歴史そのものです(漢民族が支配していたのは漢、宋、明、そして現在)。多くの国の歴史は民族の歴史に比べて非常に短いものであることがわかります。

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