ユーゴスラビア連邦の崩壊

ユーゴスラビアは、かつて南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した、南スラブ人を主体に合同して成立した国家である。先日、クロアチア、スロヴェニア、ボスニアヘルツェゴビナを回ってきた。風光明媚な地域で観光客に人気なところであるが、四半世紀前には戦禍にまみれていたところである。
私が学生時代には「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字」を持つ多様国家をチトー大統領が一つにまとめて率いた理想社会主義国家と称された。
国家の成立は1918年に遡り、セルビア王国を主体にしてスロベニア人・クロアチア人が集合し、1929年にユーゴスラビア王国に改名され、1945年からは社会主義体制を固めて、ユーゴスラビア連邦人民共和国となった。
チトーは第二次世界大戦後、コミンフォルムの設立者であるスターリンと対立し、社会主義国家でありながら、NATO陣営のギリシャやトルコとの間で集団的自衛権を明記した軍事協定バルカン三国同盟を結んで、NATOと事実上の間接的同盟国となった。
1960年代にはスターリンに代わってソ連指導者となったフルシチョフと和解し、東側からの軍事支援も得た。
その中立的立場から国連平和維持活動にも積極的に参加し、チトーの指導の下、独自路線を歩んでいく。一方で、ソ連からの侵攻を念頭に置いた兵器の国産化も進め、地域防衛軍を組織して自主路線を強化していった。
チトーは1953年から1980年死去するまでユーゴスラビアの大統領として、そのバランス感覚とカリスマ性で国家を率いた。オタワ大学教授ミシェル・チョスドフスキー氏は、1960年から1980年までの20年間のGDP年間成長率は平均6.1%で、医療費は無料、識字率は約91%、平均寿命は72歳、かつてその地域の産業大国であり、経済的な成功を収めていたと評価している。
共産主義国家、社会主義国家においては党主体の独裁と党内の権力闘争が繰り広げられることは現代に至るまで見られることであるが、チトーは与党の中に制限野党を作ったり、体制批判を含めた言論の自由をある程度許し、民族排外思想家を摘発するなど連邦の維持に腐心したとされる。生産手段もソ連流の国有ではなく、社会有つまり経済は政治と分離し、各企業における労働者によって経営を行うシステムを導入し、自主管理社会主義という独自の社会主義を運営していった。
人治国家とも言える当時のユーゴスラビアは、チトーが1980年に死去すると、一斉に各地から不満が噴出した。経済的成功を収めていたスロベニアには分離独立の機運が台頭し、クロアチア人は政府がセルビア人に牛耳られていることへの不満を訴え、セルビア人は自分たちの権限が抑え込まれていると不満を口にした。つまり、裕福な地域は「もっと自由を」と主張し、貧困地域は「もっと社会主義的政策を」と主張し、民族間の亀裂が深まっていった。
1990年代初頭にはスロベニア、クロアチア、マケドニアが相次いで独立。その後はセルビア主導のユーゴスラビア連邦軍との紛争勃発、そしてボスニア・ヘルツェゴビナの独立、最終的には最後まで連邦に留まっていたセルビア・モンテネグロが2000年代に入って連合を解消し、連邦は6つの共和国に完全に解体されることとなる。
ユーゴスラビア内の紛争、そして解体の理由は決して内部崩壊というだけではない。チトー亡き後の西側諸国による自由主義市場への開放という多分に資本主義的な戦略に翻弄された面は見逃せない。実際に紛争の激しい戦禍に見舞われたドブロヴニクで聞いた話であるが、紛争終結後リゾート開発をする地域には爆撃をしないという密約が権益を狙う西側某国とあったと説明を受けた。国連やIMFが主体となって進めた「再建プログラム」は共和国の権限を奪い、自主再建できない形へと引きづり込まれていく。財政再建という名の通貨切り下げ、賃金凍結、公営企業の売却、財政支出の大幅削減。一方で外資規制の大幅な自由化、西側諸国の債権者への利払い優先によって、国内経済は疲弊し、インフレを誘発する結果となった。
最近の動きになぞらえて言えば、EU離脱を決定した英国は、内部にスコットランドの分離独立問題を抱えている。米国はトランプ大統領の登場により、保護主義、格差拡大、人種間亀裂が際立ってきている。内憂外患という言葉があるが、内側にばかり目が行ってしまうと、憂うべき外の動きに気づかなくなってしまう。内輪揉めしているうちに、外部に漁夫の利を与えてしまうこともある。ユーゴスラビア連邦の崩壊は遠く離れたバルカン半島で起こった無関係のことではなく、気づかないうちに近くで起こり得ることとして歴史の教訓とすべき題材である。

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