ヘルムート・シュミットは、西ドイツの政治家で、第5代連邦首相(在任:1974年 – 1982年)を務めた人物である。首相退任後の1983年からは『ディー・ツァイト』紙の共同編集者を務める言論人・文化人として政治的発言を続けた。なぜ、新年早々この人物のブログを書こうと思ったかと言えば、当時の西ドイツの置かれた状況が、今の日本のそれに酷似しているからである。
第二次世界大戦敗戦後の西ドイツはアメリカの後押しを受けて、1949年ドイツ連邦共和国としてNATOに加盟するという条件付きで主権を回復した。アメリカと西ドイツはソ連に対抗するという共通の目的のもと、互いに協力していくことが合意され、1950年代には大量のアメリカ軍がヨーロッパに配置されることとなる。
1961年アメリカ民主党のジョン・F・ケネディが第35代アメリカ合衆国大統領に就任すると、アメリカはベトナム戦争にその関心の重心を移していったが、1960年代に入ってもアメリカと西ドイツの関係は良好に推移していた。1968年に第37代アメリカ大統領に就任したリチャード・ニクソンは、泥沼化していったベトナム戦争からの撤退を模索していた。その結果が1970年代に入ってのデタント(米ソの緊張緩和政策)である。具体的には米ソ間の戦略核兵器の制限交渉(SALT I)が始まったのである(1972年調印)。この頃の西ドイツの状況はどうであったか。1969年に西ドイツ首相に就任したウィリー・ブラントは新東方政策を掲げ、ポーランドやソ連との友好関係を結び、デタントに協力姿勢を取った。アメリカも東ドイツや東ヨーロッパに直接コンタクトできる西ドイツの必要性を十分認識していたのである。今の日本でも話題に上がるアメリカ駐在軍の削減や、駐在費用の負担増額などが議論され、結局ブラント首相はデタントという不安定な時期にこそアメリカの防衛が必要だと判断し、駐在費用の負担を増額するという形で決着をみている。
ウォーターゲート事件の責任を取る形で辞任したニクソンの後釜、フォード第38代アメリカ大統領が1975年に西ドイツを訪問し、シュミット首相と対面をした。その時、シュミットはSALT Iが米ソ間のみのミサイル保有数を制限する(別途、弾道弾迎撃ミサイルも制限)だけであって、欧州における戦略兵器不均衡は全く考慮されていないと懸念を強調した。戦勝国である英仏が独自の核を保有しているのに対し、敗戦国の西ドイツは自国の核兵器を保有せず、またその希望もなかった。ソ連がユーロ戦略兵器でハンブルクを攻撃した場合に、アメリカはシカゴを破滅させるリスクを冒してまで、大陸間弾道弾で反撃してくれるだろうか? もはや昔のように西ドイツはアメリカによる核の盾を確信することができなくなっていた。
フォードはその懸念を理解し、SALT IIの対象にSS20(ソ連製核弾頭搭載の中距離弾道ミサイル)やバックファイヤー爆撃機(新超音速長距離爆撃機)を加えると約束したが、1976年の大統領選挙でジミー・カーターに敗れ、約束を果たすことはなかった。翌1977年に第39代アメリカ大統領に就任したカーターの取った外交戦略は、先のオバマ大統領(第44代)とよく似ている(時代順から言えば、オバマがカーターに似ているというべきだが)。冷戦は終了し、ソ連封じ込め政策からは脱却、国際的な変化に対応し、調整戦略を取るというものである。人権とグローバル共同体を追求し世界におけるリーダーシップを取ろうと考えたのである。
一方、シュミットは西側の安全保障政策を考えるにあたっては、東西における軍事的均衡が重要であるという認識に立っていた。当時から核戦争の被害の甚大さは数字的には十分認識(西ドイツ民間人死者170万人と想定)されていたし、もしソ連が核兵器を装備した戦車を西に侵攻させた場合に、アメリカが救援に駆け付けなかったらどうなるのか、という問題は常に頭から離れなかった(この対応策には中性子爆弾配備が議論されたが、中止)。SS20は命中精度の高い台車に載った移動式(北朝鮮のICBM輸送起立発射機ーTEL【Transporter Erector Launcher】を彷彿とさせる)であり、NATO側のミサイルが届かないソ連本土から西欧のどこへでも攻撃できた。シュミットは西欧におけるこの脅威をカーターに度々伝えたが、SALT IIを早々に同意して政治的成果に繋げたかったカーターが真剣に聞き入れることはなかった。
シュミットは1977年5月にNATO協議会で、同10月にロンドン戦略研究所で、「ヨーロッパ戦域核の不均衡」の問題を取り上げ、「SALTは米ソの戦略核能力を中和する。そのため欧州では戦術核及び通常兵器の面で東西間不均衡が増幅される」「ヨーロッパでのソ連の軍事的優位に直面している西欧の同盟諸国の安全を不可避的に奪う」「そうならないために我々は抑止戦略の全範囲の均衡を維持しなければならない」と述べ、その懸念を率直に表明した。シュミットはソ連に対しても、ユーロ戦略増強は欧州との協調、そして平和そのものを脅かすものであると繰り返し説得を試みている。カーターはシュミットの演説に不快感を示しながらも、その後、ヨーロッパの均衡兵力についても配慮するようになった。
1979年6月にはカーターとブレジネフによって第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)が調印され、核兵器の運搬手段(ICBM、戦略爆撃機、SLBM)の数量制限と、複数弾頭化(MIRV)の制限が盛りこまれることとなった。NATOは、同年12月西ヨーロッパに核兵器を搭載した中距離弾道ミサイルを配備すること、そして一方でワルシャワ条約機構には軍縮を呼びかけるといういわゆる「NATO二重決定」を決議した。しかし、このカーターの緊張緩和政策放棄という方針転換は、ソ連のアフガニスタン侵攻の引き金にも繋がり、1980年1月にはソ連軍によるアフガニスタン制圧という事態に至る。アメリカ議会はこれをもってSALT II批准を拒否。結局SALT IIの合意は日の目を見ることなく、1985年に期限切れとなった。そして、初の共産圏での開催となった1980年のモスクワ・オリンピックは、アメリカをはじめ、日本、西ドイツ、韓国、中華人民共和国、イラン、パキスタンなど50カ国近くがボイコットを決める前代未聞の政治色に塗れたオリンピックとなったのである。カーターが西欧各国に打診することなく、多分に自身の大統領選挙を意識して半ば一方的にボイコットを表明したのとは対照的に、シュミットはソ連が米欧の分断を図っていることを十分知りながら、事態を悪化させまいと、ソ連を公然とさらし者にすることなく、面子を失わせずに、進み始めた欧米協調によるヨーロッパの戦域核不均衡是正の方向性を崩さない方法はないかと思案した。そのためには米ソが新たな軍拡競争に走らないように話し合いの場を設定することだった。国内ではソ連寄りとの批判を受けながらも、精力的にソ連との仲介を試みたのである。シュミットは、東西冷戦の最前線としてソ連と対立しながらも、政治面・経済面での対話や協力を進めた鉄の宰相であった。INF(中距離核戦力全廃条約)が米ソの間で調印されたのは、シュミットが政権を去って5年後の1987年、第40代アメリカ大統領レーガンとソ連の最後の最高指導者ゴルバチョフによってである。ご承知のようにその4年後ソ連は1991年に69年の歴史に幕を落とすことになった。
戦争が不可避な状態まで従来の覇権国家と新興国家がぶつかり合う現象は「トゥキディデスの罠」と呼ばれるが、新興国中国は高らかに次の覇権国家を狙うと公言している。世界を制御する力も気概もなくなったアメリカと中国の間に位置する日本はまさに、冷戦時代のソ連とアメリカに挟まれた西ドイツの立場に近づいている。目先では北朝鮮の核ミサイル問題が顕在化した問題として注目されているが、海洋大国を目指し世界の覇権を求める中国と日本の対立は不可避である。幸いロシアのプーチン大統領と安倍首相は良い関係のようであるが、周辺諸国や利害関係の少ない遠国とも関係性を強化し、確固たる国家観としたたかな外交を通じて国家の安寧を維持していく必要を痛感する中、改めてシュミットの言動に学ぶことは多いはずである。それは詰まるところ「適切な均衡が防衛を保障する」ということである。
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