大学受験にあたって、受験生は未だに文系・理系の選択を強いられているのであろうか?
教育現場では便宜上、生徒を文系・理系に分けて、志望校に合格するための必須科目を集中的に勉強するのは手段の最適化という観点からわからないでもないが、卒業して随分経っているにも拘らず、それを引きずって(固執して)いる人を見ると哀れになる。昔はInnovationが50年に一度程度、人生も50歳+αであったので、学生時代に勉強したことで食いっぱぐれることはなかったであろう。しかし、いまやInnovationが十数年に一度、人生100年時代を前提とすれば、生涯学習をもって時代に適応できなくては食いっぱぐれる時代になっていることを認識しなければならない。
昭和2年生まれの私の親父は既に鬼籍に入ったが、現役時代には「私もエンジニアの端くれですから」と半ば誇らしげに人に話していた姿は今でも強く印象に残っている。ちなみに親父は新幹線の車両整備運行に携わるエンジニアであった。
日本の高度経済成長を支えたのは、紛れもなく科学技術の発展によるところが多いであろう。70年代後半には自動車、電化製品、カメラなどは日本製品がNO.1と言われ、日本が急速に貿易黒字を積み上げていった時代であった。また一方で、敗戦により、その後の軍拡競争に巻き込まれることなく、国の資本を経済発展に集中投下できたこと、護送船団方式と称されながらも経済力拡充による国力増強に舵を切った東大をはじめとする法学部等出身者の政治家や官僚が牽引してきた時代でもあった。
外国人から文系・理系という話は聞いたことがない。自分の学んだ専門分野を呼称するのが普通である。人文学部-B.A. (Bachelor of Arts)、経済学部-BEc (Bachelor of Economics)、商学部-BCom (Bachelor of Commerce)、理学部-B.S.(Bachelor of Science)、建築学部-BArch (Bachelor of Architecture)、工学部-B.E.(Bachelor of Engineering)などである。私はアメリカ赴任ビザ取得の際に自分の学位が英語ではBachelor of Political Scienceであることを調べて知るに至った。諸外国では博士課程を修了した人はPh.D(Doctor of Philosophy)と呼称され、日常生活でもDr.~~と敬意をもって呼ばれる。日本ではノーベル賞など世界的権威のある賞を受賞したような余程偉い人でもなければ、~~博士とは呼ばれない。日常生活の中で、通常Doctorと呼ばれるのは医師だけである。
日本で文系・理系と区別され出したのは、大正7年の第二次高等学校令によるとの記載がWikipediaにあった。そこで、「文科甲類」「文科乙類」「文科丙類」「理科甲類」「理科乙類」(甲‐英語、乙‐独語、丙‐仏語)なる区別が為されるようになったとある。橋爪大三郎氏によれば、「そもそもこんな区別があるのは、発展途上国の特徴である。黒板とノートがあればすむ文系にくらべ、理系は実験設備に金がかかるので、明治時代の日本は、(理系の)学生数を絞らざるをえなかった。そこで数学の試験をし、文系/理系をふり分けることにした」そうである。理系の人のそんな矜持が「私もエンジニアの端くれですから」という親父の言葉に引き継がれているのであろうか。
昨今話題の日大には文理学部がある(1958年改称)。文系と理系が複合した学科が18ある総合学部とのことであるが、教員養成の色彩が強く、文理の枠を超えて学問を追究しようといった理念は残念ながら感じられない。卒業者有名人の顔ぶれを見ても、スポーツ選手や芸能人、アナウンサーが目につき、政治家などの文系的人材は輩出しているものの、理系的な活躍をしている人は極僅かと見受けられる。
AI(人工知能:artificial intelligence)は、いまや最も盛んに語られるBuzzwordであろう。人間の敵か味方かなどと無責任なメディアが囃し立て、肯定的にも否定的にも捉えられている。別の意味合いでBIとAIという言葉がある。BIとはBefore Internetで、時代の流れがSlowでSimpleであった時代、つまり将来をそこそこ予測できた時代。AIはAfter Internetで、時代の流れがFastでComplexであり、予測できない手探りの時代。前者は完全無欠(Perfection)を目指す時代から、後者の最善の努力(Best Effort)を目指す時代へ変わってきたとする考えである。学問ではAntidisciplinary(既存の枠を飛び越えた学問)が必要とされる時代になってきており、文系・理系といった100年の前の区分に拘っている時代は遥か昔に終わっている。
そしてEducation(誰かに教わり、それを覚える)時代から、Learning(自分で学びたいことを選び、自ら学ぶ)時代へ変わっていかなければならない。なぜなら、もう既に我々は答えのない時代に突入しているからである。
AIがこれからの時代に大きな役割を担っていくことはほぼ間違いない。学問としてはAIを味方にする教養(プログラミング、論理性、合理性、網羅性など)と、AIに代替できない教養(リベラルアーツ‐歴史、哲学、文化、美術、音楽、宗教、生物学など)、そして全てを疑って掛かる程の学びの姿勢が必要になる。
それら各人各様の違った意見を出し合い議論しながら、ひとつの意見にまとめていく教養と統率力が人間個人に求められていくものと思う。
そして、これから未来を担っていく若い世代が、固定観念に縛られた親や大人のこれまでの経験値による過剰介入によって、子供本来の純真無垢な可能性に溢れた好奇心が侵されないことを切に願っている。
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