明治維新150年、五か条の御誓文を読み返す

今年2018年は、明治維新1868年から数えて150年の節目の年である。明治維新をやり遂げた薩長土肥の遺勲や幕末志士の思いなど、その評価にはいまだ毀誉褒貶があろう。当時、清の二の舞になってはいかんと、欧米列強へ対抗せんとした尊王攘夷論は、最終的には尊王開国という形に終結していき、大政奉還に至った。勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城は有名なくだりであり、これにより多くの優秀な人材が犬死することなく以降の時代を牽引することとなるが、その後1年半に渡る戊辰戦争、そして日本最後の内戦である西南戦争を経て、西郷自害に至るまで10年余り多くの血が流れたことは歴史の知るところである。
今世紀に入って2010年にチュニジアで始まったジャスミン革命から波及した、アラブ世界における民主化を求める「アラブの春」は、前例のない大規模反政府デモに発展した。2012年にはエジプトやリビアで強権長期政権が打倒されたが、その後の国内対立とその衝突により混乱を招き、シリアに至っては泥沼の内戦状態がいまだに続いている。それら間隙を縫ってISが建国を宣言し、いっとき大いに勢力を拡大したことは記憶に新しい。
旧体制崩壊後に秩序立てて新体制を立ち上げることは、旧体制を崩壊させることより何倍も困難な作業である。明治維新の元勲等の奮闘努力はやはり歴史上の快挙と言っていいであろう。それら元勲等の陰に隠れて、あまりその評価が表に出ないが、明治天皇が天地神明に誓約する形で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針である「五か条の御誓文」は、当時の人心安寧とその後の日本社会における民主主義に基づいた基本的人権の確立に大きく寄与したものと私は考えている。
左巻きの人たちはすぐに「戦前回帰」=「軍国主義復活」などと声高に叫ぶが、日本軍(特に陸軍)が軍国主義に走った時代は1931年の満州事変から1945年の第二次世界大戦敗戦までの14年間であり、その百倍以上の長きにわたる日本の歴史を「戦前」と称して片っ端から否定するというのはまったくもって無知蒙昧の仕業としか言いようがない。
企業経営でも「変えてはいけないもの」と「変えなければならないもの」の峻別が非常に重要で、これを間違ってしまうと背骨の無い軟体動物のような企業体質になってしまう。
その意味で、「五か条の御誓文」(天皇が天地神明に誓ったもの)の内容は、明治維新にあたって天皇により「民主主義」が宣言され、大正デモクラシーを経て日本社会に根付いていったものである。日本の民主主義は決して、敗戦後にGHQから押し付けられたものではないということを日本国民が再認識し、五か条の御誓文の精神は「変えてはならないもの」のひとつとして後世に伝えていかなければならない大きな財産ではないかと、その歴史に思いを馳せるものである。

【五か条の御誓文(現代語訳)】(原案起草:由利公正、修正:福岡孝弟、加筆:木戸孝允)
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
   ・広く会議を興しとは、当時人々の意見を広く集めて会議するという意味はなく、府藩県に渡って広く会議を興そうという意図であったと福岡が語っている。しかし、この思想は後に自由民権運動を経て、1928年に男子普通選挙、1945年に婦人参政権が成立する基盤となる。
   ・万機公論とは、あらゆる重要事項は、広く公開された議論を経て行うという意味で、坂本龍馬の船中八策(1867年)にある「万機宜しく公議に決すへし」から採られたものとされる。
一、上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし
   ・福岡が「士民」を「上下」に修正し、一層広い意味を持たせ、人心を一つにするという国民団結を謳っている。
   ・経論は一義的には経済振興を表したものであるようだが、経済政策に限らず国家の政策全般のことと解釈して問題ないと思われる。
一、官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
   ・福岡が「官武一途」(中央政府と地方武家が一体となって)を加えたため、主旨が不明瞭になったと言われるが、要は各々が各々の分野で弛まぬ努力を続けて志を成し遂げることが重要であると説いていると解釈できよう。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
   ・まさに陋習とは「変えるべきもの」であり、変える際には普遍的な自然の摂理や原理原則(当時は国際法などが念頭にあったよう)に基づいて行われるべき、といういつの時代にも通用する考え方と言えよう(木戸の発案)。
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
   ・後半の幕藩体制において、極限られた国との交易しかった結果、世の中のことに疎かった反省を踏まえて、知識を世界中に求める重要性を説いている。皇基とは、天皇が国を治める基礎という意味である。

今日においては、現行憲法で「天皇は日本国と日本国民統合の象徴」であることから、天皇は国政に関する機能は全く有していない。五か条の御誓文を発した時の明治天皇は16歳。総裁・議定・参与の三職が若い明治天皇を補佐し、天皇の権威(Authority)を持って近代国家への改革を先導していった。明治天皇は、大日本帝国憲法下あっても、質素な生活と峻厳に自己を律する姿によって、当時から象徴として国民の畏敬の念を集めていた。崩御に至るまで君権政治とか圧政政治とは無縁であった。日本の軍国主義時代は大いに反省すべきところがあるが、かといって、それ以前の日本の文化・慣習・歴史を一刀両断で否定する愚を犯してはならない。古きを温ねて新しきを知る(温故知新)はいつの世にあっても金言である。

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