昨年、十数年ぶりに金閣寺(鹿苑寺)を訪れる機会を得た。外人観光客が溢れ、その一行の流れについていく格好で庭園内を歩いていくうちに、何か外国の観光地にワープしたような感覚に襲われた。
金閣寺は室町幕府3代将軍足利義満が将軍職を子の義持に譲ったあと、1397年に西園寺を譲り受け2階3階を金箔貼りに一新し、政治の実権を握っていた山荘である。義満は南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を抑えて幕府勢力を確立した。また、明との勘合貿易で巨万の富を得て、その権勢を誇るため、また明への誇示もあって豪奢な金閣寺を造ったと思われる。4代義持も義満と同様に長男の義量(よしかず)に将軍職を譲ったが、その5代義量は夭折した。6代義教(よしのり)はくじ引きで決まり、僧から俗世に戻る還俗の上で、将軍職に就いた。くじ引き将軍の義教は幕府権力強化のために、強引な強権政治を行ったが、却って部下の守護大名の反発を買い、最後は謀殺されてしまう。義教の死後、幕府は急速に弱体化し、嫡男の義勝が8歳で7代目を継ぐも翌年死去。その弟の義政が幼年にして8代目を継ぐことになり、後に銀閣寺(東山慈照寺)を建立することになる。
金閣寺と並び称される銀閣寺は金閣を模して造営した楼閣建築であるが、見た通り銀は一切使われていない。外壁は黒漆である。銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のことで、もともと金閣寺と対照させられる建物ではなかった。
義政の時代の室町幕府は財政難と全国各地で起こった一揆などに悩まされており、13歳で将軍の座に就いた義政は徐々に政治を疎むようになったと言われている。義政は妻の日野富子や有力守護大名の細川勝元・山名宗全らに政治を任せ、自らは慈照寺に住み、趣味の世界に生きるようになっていった。こうした将軍不在の間に政治はさらに乱れ、後の応仁の乱(1467~1477)を引き起こす原因となる。
しかし、一方で義政の文化面での功績は大きく、東山文化と呼ばれた「わび・さび」という新たな美意識を日本に根付かせることとなる。この時代には能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が花開き、それらは次第に庶民にも浸透し、今日まで続く日本的な文化を数多く生み出した。「わび・さび」は英語ではやはり訳しようがないのか、Wabi-Sabiと記述されているものが多いが、「Traditinal Japanese Beauty」と意訳しているものもある。
「侘び(わび)」とは「わぶ」という動詞の名詞形で、元来「気落ちする」「嘆く」「寂しく思う」「落ちぶれる」「貧乏になる」という悲観的な意味を持つ言葉であるが、中世になって「貧粗・不足の中に心の充足を見出そうとする意識」へと変容し、室町時代の茶の文化と結びついて、「静かな境地を楽しむ。わび住まいをする。閑寂な情趣を感じとる。」といった日本独特の美意識を形成するに至った。
「寂び(さび)」は「さびれる」を意味する「さぶ」の名詞形で、元来「荒れた気持ちになる」「色あせる」「さびる」など時間の経過とともにものが劣化するという意味の言葉が、室町時代に「古びたものの中に奥深いものや趣のあるものが感じられる」といった美意識に変化していった。
銀閣は「さび・さび」の文化を象徴する質素で幽玄な趣を持った建築物で、義満のように己の財力を誇示する金閣とは違い、質素な中にも美を追求し、その趣を楽しむ新たな価値観を創造したと言える。茶をたてて心の平安を求める侘茶、座敷を飾る一輪の立花、龍安寺に代表される枯山水、雪舟により完成された水墨画、わずかな動きで世界を表現する能や狂言、これら東山文化で生まれた「わび・さび」という美意識はその後の日本人の貧しくても心豊かであれといった生活文化に大きな影響を与え、日本文化として連綿と引き継がれてきた。
「恒産無くして恒心無し」とは、孟子が人々の生活安定を政治の基本として、その必要を強調した言葉であるが、十分すぎる収入と資産があるにもかかわらず、飽くなき金欲に囚われの身となった人々を見るにつけ、自分なりの「豊かさ」の中に「わび・さび」の美意識があることにホッとする平成最後のお正月を過ごしています。
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