倉田耕一著「アメリカ本土を爆撃した男」を読んだ。奮戦記と思って読んだのだが、全く当てが外れた。読む進むうちに涙が滲んできてしかたがなかった。
その男、藤田信雄は帝国海軍きっての腕利きパイロットで、潜水艦に搭載されるたった全長8.5mの零式小型水上偵察機を操ってオレゴン州のブルッキングスという町の山中に1942年9月9日焼夷弾を打ち込んだ。
それに先立つこと5か月前の4月18日、日本は初めてアメリカによって本土空襲に見舞われた。米空母から発艦したドーリットル中佐が指揮する16機のB25は、東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を爆撃し、国際法で禁じられている「民間人に対する攻撃」(校庭掃射など)を行った。日本国民の怒りが沸騰するのは当然であった。
それを受けて、4月21日に軍令部に呼び出された藤田は、上記のオレゴン州森林への爆撃命令を受ける。サンディエゴの海軍基地でもなく、ロス・アンジェルスの飛行機工場でもなく、なぜ人もいない森林なのかと藤田は訝った。
作戦はこうである。アメリカの西海岸はレッドウッドなどの森林が多く、そこに焼夷弾を打ち込んで火災を発生させれば、折からの強風により大火災となる。そうなれば、市民は命からがら非難しなければならなくなる。そして焦燥地獄により心身ともに疲労困憊となるであろう。その効果は絶大なものになるはずである。我々はアメリカとは違う、民間人を殺傷するわけにはいかないというのがこの作戦の趣旨であった。
6000時間無傷の飛行歴を誇るエリート・パイロット藤田は、その命令を首尾よく成し遂げた。しかし、のちに確認されたところでは、木が一本倒れた程度で実効果はほとんどなかったというアメリカ側の調査結果が公になっている。しかし、藤田がアメリカ本土を爆撃した史上唯一の男であることはアメリカの歴史に刻まれることとなった。
時は流れ1962年、藤田はブルッキングス市から毎年5月に開催される「アゼリア祭り」に招待される。当地の青年会議所の招きによるものだが、当然アメリカ在郷軍人会からは強硬な反対論が出た。「3000ドルもの大金を使って、なぜかつての敵を招待するのか」と。最終的には「戦争を美化するのではなく、あくまで日米両国の友好と平和親善のため」という青年会議所の熱意ある説得により、藤田の正式な招待が決定した。その趣旨の手紙を受け取った日本外務省は、藤田を料亭に呼び出し、日米関係に影響が及ぶことを恐れ、時の官房長官大平正芳がその渡米に一切関知しないと藤田に告げている。
藤田は訪問先において戦犯として裁かれるのではないかと考え、自決用に400年間自宅に代々伝わる日本刀をしのばせ渡米した。しかし、ブルッキングス市はかつての敵国の英雄である藤田をフェスティバルの主賓として大歓迎した。藤田は自らの不明を恥じ、持っていた刀を友情の印としてブルッキングズ市に寄贈することとした。
藤田は戦後、金属金物業で財をなしたが、息子の代になった1979年に15億円の負債を抱えて倒産してしまう。翌年かつての部下の会社に社員送迎の運転手として雇ってもらい、老骨に鞭打って献身的に働き最終的には取締役工場長の任にまで昇り詰めるが、安月給の中から毎月3万円を貯金していた。それはブルッキングス市に何か恩返しをしたいという気持ちから積み立てていたものであった。1985年筑波科学万博が開催された年に、藤田の貯めた100万円を元手にブルッキングス市から3名の高校生を招待することができた。水海道青年会議所のメンバーの支援があり、筑波大学の学生は通訳を買って出てくれた。ソニーも協力を申し出て、ジャンボトロンの大画面に高校生たちを映し出し、担当者の計らいでジャンボトロンの屋上にまで案内した。
1990年5月、藤田は再度の招きによってブルッキングス市のアゼリア祭りの会場にいた。電力会社の高い鉄柱に藤田が持参した鯉のぼりが掲揚され、人だかりができた。藤田は来日した高校生と再会を果たし、その家族や市幹部との交流を深め、5月25日は「藤田信雄デー」と定められた。
藤田は1997年85歳で死去したが、藤田の遺灰の一部が埋められた空爆地域には、現在「アメリカ大陸が唯一日本機に空爆された地点」と書かれた看板が立てられている。生前、藤田は「我々日本人には、かつての敵をこんなにまで歓迎する心の余裕があったであろうか」「アメさんにコテンパンに打ちのめされた」ことを悟ったと友人に語っている。この心境が藤田の本当の終戦であったのかも知れない。過去にばかり拘泥することの愚かさをこの話から多くの人が感じてくれれば嬉しいと思う。
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